Miscellaneous

ある家庭教師の独り言

学力の二極化

 最近、学力低下に加えて、学力の二極化という問題をよく耳にする。できる人とできない人に二分され、中間層が減っているということだが、その中間層ができない側に回ってしまっていることが、特に問題視されている。

 この記事で扱っている学力の二極化は、主に私が仕事で接している生徒を念頭に置いたものなので 世間一般で言われているものよりも限定的かもしれないが、その原因の一つは、勉強が淡泊になってしまったこと、言いかえれば、できない人もできる人の勉強法をとるようになってしまったことだと思っている。

 この話を進めるにはまず、人には生まれ持った能力差があるという前提に立つ必要がある。あまり認めたくない話かもしれないが、現に、同じことを習得するにも、すぐできてしまう生徒もいるし、なかなかできない生徒もいる。私だって、他の人が難なく習得できたことを、苦労して習得したという経験を多くしている。やはり能力差はあると言わざるを得ない。

 ちなみにできる人の勉強法は、難問の上手い解法とか、入試過去問を含め、実戦的な問題をこなした分量などが、クローズアップされがちだ。単語や文法などの基本事項をこうやって必死に暗記しました、という声はあまり聞こえてこない。それは恐らく、できる人にとっては、そうした基本の暗記は苦労なくできてしまうか、あるいは、実戦問題をこなしながら上手く覚えるべきことも覚えていて、特に意識して何かを覚えたという感覚がないからではないかと思っている。

 ここで確認しておきたいのは、基本事項を暗記していないなら、実戦的な問題を行なっても意味がないということと、できる人は、意識的に暗記をした感覚がないにしても、覚えるべきことは覚えているということだ。これらのことを考慮せず、できない人が、できる人の表面的なことだけをとらえて、基本の暗記がままならないのに難問の解法を学んでも、あるいは、よくわからないまま過去問の数だけをこなしても意味はない。

 やはりできない人は、より正確に言えば、基本事項が暗記できていない人は、実戦問題には目もくれず(実戦問題と並行してでももちろんよいが)、そうしたことの暗記を徹底的に行なうべきなのだ。もちろん暗記できるまで。

 ところが時代が進むとともに、覚えるべきことは徹底して覚えるという骨太の勉強をする人が、だんだん減っている気がする。さらに言えば、ちょっと前までは、そうした勉強をしていないにしても、意志が弱くてできないだけで、大半の人はやらなければいけないのは分かっていたはずなのだが、今では、そもそも意識的に何かを覚えようという意思が希薄になっている、あるいはそうした世界観がなくなっている感がある。

 なぜこうしたことが起こったのだろうか。暗記に耐えうる忍耐力がなくなったのか、そしてそれゆえ、泥臭い勉強法ではなく、スマートで洗練された勉強法に飛びつきたくなるのか、面白い刺激的な情報があふれるようになり、元々面白味のない暗記作業が一層面白くなくなったのか、それとも自ら、暗記はできていると勘違いしているのか、色々と考えてみるが、はっきりしない。

 もちろん、ウチの生徒などを見ていても、まるで暗記をしない訳ではない。単語テスト等で、必要な暗記は課しているが、大体それはきちんとこなしてくれる。実は今の生徒は、総じて真面目になっているので、以前よりもむしろ指示にはよく従ってくれるくらいだ。ところが、例えば単語テストのついでに、以前覚えた単語を抜き打ちでチェックし、結構忘れていることが明らかになった場合、昔であれば、「あ、やばい、こんなに忘れているとは思わなかった、もっと復習にも力を入れます」みたいな反応が返ってきたものだが、今は「・・・」(無反応)とか、ただ一言「頑張ります」とか(何をどう頑張るのだ、とツッコみたくなる)、言葉には出さないものの、指定した範囲のテストはちゃんとできましたけど、みたいに、事の重大性を認識していない(orできない?)ような反応が返ってくる。このような意識では、本当の意味での暗記はできず、結局、意識改革が、問題解決の一番のポイントとなるのかもしれない。

 昔は英語の勉強と言えば、それはイコール暗記だった。教師に言われるまでもなく、生徒は皆そういう認識だった。覚えるべきことは、何度も反復してとことん覚えた。友達と暗記を競いあったりもした。とにかく暗記への意気込みが今とは違っていた。

 今の生徒も、昔のような勢いで暗記をすれば、もっと英語力があがるのに、と思える事例は結構ある。そもそも真面目に勉強をしているのに、最も大事なこと(つまり暗記)を軽視するなんてもったいない。

 とは言え、ウチの生徒を見ていても、根本的な意識改革はそう簡単ではない。でも真面目に勉強はしてくれるわけで、例えば単語で復習すべきことをズバリ指定したり、復習のサイクルを提示したりしながら、形式的でもよいから、以前のことも含めて暗記をするように仕向け、最終的には、自ら本当の意味での暗記の重要性を意識するに至り、それに基づいて自ら勉強してくれるようになってもらいたいと思っている。

 そして、何かの縁でこの記事を読み、思い当たる節がある方は、ぜひ本当の意味での暗記をしていただきたい。学力の二極化で、わざわざできない側に回らないためにも。

日本人はどうしたいのか

 ブラジル・サッカー・ワールドカップ、今回日本は1勝もできずに、1次リーグ敗退という残念な結果で終わってしまった。日本のW杯出場は、これで連続5回目。1998年のフランス大会初出場から16年が経っているが、当初から敗因の1つとしてずっと言われ続けてきたのが、決定力のなさ、つまりここぞという時にゴールを決める力のなさだ。

 今回は、欧州で活躍している選手も多く、これまでの日本代表と比べて、技術力は高いということだった。確かにそれは間違いないと思うが、決定力に関しては、結局今までと変わらないかなという印象だった。

 思えば16年というのは結構長い年月で、98年の初出場時に7歳だった小学1年生が、23歳という今回のW杯で十分活躍できる選手になっているほどの年月だ。これほどの時間があれば、決定力のあるアタッカーがせめて1人くらい生まれてもいいのにとも思うが、そうした逸材がいなかったのだろうか。いたけども育成が上手くいかなかったのだろうか。それとも日本特有の横並び意識が、そうした逸材をつぶしてしまったのだろうか。

 でもそれより気になるのは、そもそも決定力のある選手を作ろうとしたのかということだ。以前よく日本代表OBの方たちが、日本人の能力では突出したアタッカーになるのは無理だと、だから組織の力で戦うべきなのだと言うのを耳にしてきたが、そうした考えはまだ根底にあるのだろうか。それとも改めたのだろうか。

 そもそもアタッカーを作ろうとしていたのなら、なぜ生まれなかったのかを検証して、反省をその後に生かすべきだが、組織力で戦おうとしていて、アタッカーを作ろうとしなかったのなら、アタッカー不在を嘆いても意味がない。別の敗因をしっかり検証すべきということになる。

 というように、こうした点1つとっても、基本的に日本はどうしたいのかがはっきりしない。そこがはっきりしないから本当の意味での反省もできない。反省ができないから、次に向けた有効な対策もとれない。こういう悪循環を(まさに受験勉強でも避けたいこと)、この16年繰り返してきてしまった気がする。

 一般国民にも問題はある。試合に負けた時こそ、突出したアタッカーの出現を願うが、普段日本人は突出した存在をよく思わない。出る杭を打つ性質は、他国よりかなり強い。そんな文化の中でアタッカーが育つだろうか。

 約3年前の記事で書いたのだが、大接戦で延長の末、ある選手が見事なボレーシュートで1点をあげ、その1点のおかげで勝ったというアジア杯の決勝戦があった。その得点をあげた選手が、今日の試合では自分がヒーローになろうと思っていた、といった発言をしたところ、なぜ(一般の日本人のように)皆のおかげで勝てたという旨のことを言わず、自分のことばかり言うのかと、ネット等でかなり叩かれたらしい。こんな環境で、突出したアタッカーよ出てきてくれ、と望むのは虫がよくないだろうか。

 主将の長谷部選手が、国の文化もサッカーの一部だということを示唆していたが、まさにその通りだと思う。もはや文化から見直さなければ、日本はこれ以上強くならないのかもしれない。

 突出したアタッカーが見事なゴールを決めて勝つ、といったことを望むのなら、それを阻害しない文化、つまり日常的に突出した存在を認める環境を作らなければならないだろう。

 それは無理だが強くなることは望むという場合は、組織力を鍛え上げ、徹底的に集団で戦う戦法をとるか、または日本独自の奇襲作戦でも行なえばよい。日本は何かと世界標準から逸れるので(いわゆるガラパゴス化)、実際変わった戦法の方が、日本人の力が発揮できるかもしれない。

 いずれにしても日本国民も、どうしたいのかをはっきりさせる時が来たのかもしれない。それがなければ反省もできないし、反省ができなければ、有効な対策もとれないのだから。

普通がイチバン

 今の日本、何においても、他との差別化が必要なのか、変わったものがもてはやされる。なのでちょっとあまのじゃくな(!?)私は、逆に「普通」をウリにしようと思っている。と言うより、世間の風潮とは関係なく、当初から、奇をてらわず正攻法で(つまり普通のやり方で)やっていたというのが実情なのだが。

 英語の勉強法においても、何か画期的なものがあると期待したくなるかもしれないが、やはりそれはないと思う。大体そんないいものがあるなら、すでにもっと世に定着しているはずだし、学校でも導入されているはずだ。自分の経験でも、特別画期的な勉強法はないと言える。むしろ邪念を捨て、普通の勉強に徹することが、英語力を高める一番の近道だ。

 あるテレビ番組で聞いた、「誰でもできることを、誰にもできないくらいやる」という言葉が頭に焼きついている。素晴らしい言葉だと思うが、成功の秘訣はまさにこうしたことで、特別なことをやるという訳ではないのだ。

 ただ「普通」というものは、真理をついている代わりに、初めて学ぶ者にはとっつきにくかったり、ひたすら普通を押し通すだけでは単調だったりするので、その人に応じた例を挙げながら説明をしたり、項目を絞って説明をしたり、時には本題を離れて、面白さや刺激を優先させて事を進めたりもする。でもそれらは、あくまでも普通を貫くための方便。王道から逸れないように注意を払う。

 上述のように、今は何かと差別化が求められる。塾とて例外ではなく、他塾と比べて、あるいは他教師と比べて、際立った個性をアピールしなければならないようだ。それならば私は、普通さをアピールする。私は1人でやっており、組織の意向や他教師の動向を意識しないでよいので、堂々と普通を主張できる。

 唯一、普通を求める生徒が誰もいなくなってしまったら、考え直さざるを得ないのだが、そうなったらそうなったで、その時に考えよう。いや、そうならないように、「普通」のよさを、少しでも多くの生徒に伝えるよう頑張ろう。

日本の劣化

 日本が劣化したと言われて久しい。それは、モラルやプロ意識の低下について言うことが多いが、問題の処理の仕方の劣化もある。不祥事やスキャンダルの後、当事者が表面上謝罪はしながらも、責任逃れの発言に終始する記者会見などが、典型例だ。

 中でも最悪の例だと思うのが、事が起こって状況が厳しくなると、責任者が一旦雲隠れし、事の重大さによっては体調不良を装って入院し、時間をかけて完全なる理論武装をした後、弁護士とともに現れ、真相の説明よりも、法的には問題がないということを延々と訴える、といったことだ。

 そしてその最悪なことがついに、科学の世界でも起こってしまった。そう、あのSTAP細胞の小保方氏の会見だ。真理を探究する科学者が、自らの研究成果ではなく、法律論であれこれ弁明する姿には、憤りを通り越して哀れさを感じた。自ら科学者失格だと言っているようなものだ。

 そもそも、論文がねつ造かどうかということに、話の中心が持っていかれてしまっているが、もはや、ねつ造でもねつ造でなくてもよいから、とにかく論文で発表したSTAP細胞を見せてほしい。200回も作成に成功しているSTAP細胞を、小保方氏以外、なぜ誰も再現できないのか、そこを明らかにしてほしい。

 この件をもって、科学会全体の劣化と言うのは行き過ぎなのかもしれない。何が事実で何が仮説かを正しく見極められなかった、未熟な一科学者による単なるフライングだったと言う方が適切なのかもしれない。だから法律論などに持ち込まず、初めに潔く謝ってしまえば、こんな大事にはならなかったのにとも思う。

 ただ、理化学研究所ほどの権威ある機関の研究者が、ネイチャーほどの権威ある科学誌に提出した論文で、そうした稚拙なことをしてしまったこと、そして世界中で真偽が疑われ、ひいては日本の科学会全体の信頼も損ねたことを考えると、もはや個人の問題では済ませられないだろうか。

 一方、今回の件で驚いたことの一つが、一般の国民に、小保方氏を擁護する声が多いことだ。か弱い女性が一人必死で、理研という大きな権力に立ち向かっているという図式にも見えるので(弁護士の思惑通りか)、心情的には小保方氏を擁護したい気持ちになってしまうのはわかる。

 でも200回も成功し、そして世界的に権威のある科学誌に発表したことが、当人以外世界の誰一人として再現できないというのは、一般の人にとっても、おかしいことは分かるはずだ。科学的な知識がなくとも、発言の合理性のなさには気づくはずだ。

 日本の一般国民は得てして、何か事が起こった場合、とりあえず上(権力のある側)を叩いておけばよいという、安易な発想があるような気がする。今回の件でも、きちんと考えることなく、いつもの習慣で、悪いのは上(この場合理研)だと決めつけ、上述のような単純な不合理ささえ見抜けなくなってしまったとしたら、それこそ一般国民の劣化の表れだ。

 国民の世論を気にしてか、教育評論家や政治家の一部からも、小保方氏擁護の声が上がっているが、私的にはがっかりだ。再現できない実験結果を世界中に発表することは、教育的にもよろしくないし、国としての信頼も損ねたのだから、そうした人たちはむしろ非難すべきではないのか。非難までは忍びないというにしても、きちんと戒めるべきではないのか。厳しくあるべき人が、人気取りで、なあなあな態度をとる。これも劣化の典型例だ。

 ちなみに、このブログ記事を書く少し前に、小保方氏の疑惑を調査する委員会の長である石井氏、そして驚くことに、昨年ノーベル賞を受賞したあの山中教授についても、論文の画像に疑義があるとの報道があった。昔の論文の欠陥を探している人がいたことに驚くが、小保方氏の弁護士にとっては、願ったりのことかもしれない。

 ただ、画像の疑義という点では、両氏と小保方氏は同じということになってしまうのかもしれないが、決定的に違うのは、小保方氏と違って、石井、山中両氏の論文の内容自体は、正しいと証明されていることだ。ここを無視して、揚げ足取りのような行動で、科学者が研究する環境を乱してよいものだろうか。

 そもそも今回の件は科学の問題だ。なのでいずれは、国民世論も感情論から、真実を踏まえたものへと変わり、事態は落ち着くべきところに落ち着くものと思うが、この一連のドタバタ劇は何とも残念だ。無用な混乱を避けるために、一般国民も上ばかり責めていないで、もっと賢くならなければ、と強く思った今回の出来事だった。

個人指導のジレンマ

 今さらの話だが、個人指導(家庭教師)のような1対1の指導のメリットは、生徒個人の特徴、レベルに合わせた指導ができるということだ。でもこのことは、デメリットにもなる。生徒に合わせることを意識しすぎると、本来目標とするレベルになかなか高まっていかないからだ。

 より生徒側に合わせれば、つまり、その時の生徒のレベルに合わせて問題を選択したり、生徒がつらいと思わないような分量に抑えたりすれば、そう無理をしないでも対処できるから、生徒は気分よく勉強ができるかもしれない。でもこれだと、目標に向かって学力が高まる、ということにはつながりにくい。

 一方で、より教師側に合わせれば、目標とするレベルから逆算して、今何をすべきかを考えて指導を行なうので、得てして、レベルも分量も、生徒が思っているものを上回ることが多く、つらい勉強となってしまうかもしれない。でもこの勉強についてきてくれるのであれば、学力は高まる。

 ということで、個人指導を行なっていると、生徒寄りで指導すべきか、教師寄りで指導すべきかで、ジレンマに陥るが、要は、そのバランスがとれた指導が、良い指導ということになるのだろう。でも、これがなかなか難しい。

 私の場合は、せっかく指導を受けてもらうのだからきちんと成果を出したい、という思いがふつふつと湧いてくるので ――― 別に恰好をつけているわけではなく、これは私の本能のような気がしている。そしてこの本能ゆえに、私はこの仕事に落ち着いたのだとも思っている。―――、教師寄りで指導を進めたいという気持ちが強い。なので、生徒にとっては大変なことも間々あると思う。

 でも教師寄りに指導すると言っても、有無を言わさず、こちらがやりたいことをやるというわけでは、もちろんない。目標とするレベルはこのくらいで、今の生徒の状況はこうで、だから目標に達するには、このくらいのペースで進まなければならない、といったことをきちんと話し、生徒に納得をしてもらった上で、指導を行なう。

 もちろん、理想ばかりを語っていても、当の生徒がやる気をなくしてしまったり、教師と生徒の信頼関係が壊れてしまっては、元も子もないので、その点には注意を払う。でもとにかく、生徒が楽だと思うレベル(難易度にしても分量にしても)でとどまらせてしまうことなく、少なくともその少し上のレベルのことは行なわせたい。本来進むべきペースではつらすぎるにしても、まずは半分の量から始めてみないかと提案するなど、何かしらの手は打って、少しでも上昇に向かわせたい。目標を達成したいなら、そして力を高めたいなら、やはりそうしたことは必要なので。

 究極の指導は、生徒が特につらいとは思わず、でもやるべき必要なことはやらせている、といったものなのだろう。その域に達するのはなかなか難しいと思うが、そこを目指して努力はしていきたい。そしてその域に至るまでは、ジレンマに悩みながらも、場合によっては反発を受けながらも、とにかく成果を出すということに主眼を置いて、指導をしていきたい。

受験生もあの満足感を ・・・ ソチオリンピックを見て

 ソチオリンピックが終わった。受験生はオリンピックどころではなかっただろうから、ちょっと申し訳なく思うが、何だかんだと結構見てしまった。

 フィギュアスケートの羽生選手や、スノーボードの平野選手、平岡選手のような、若者の活躍ももちろん素晴らしかったが、私のような年配の者にとっては、スキージャンプの葛西選手の、20年越しのメダル獲得が、一層感動的だった。ちょうど20年前、1994年のリレハンメルオリンピックで、あと一歩のところで金メダルを逃したこと、その後の、金メダルをとったあの感動的な1998年の長野オリンピック・スキージャンプ団体 ――― 思えば私はこれを見て初めて、スポーツが人を感動させることを知ったかもしれない ――― のメンバーから直前ではずされたこと、などをよく知っているので、感動もひとしおだった。

 一方今回のオリンピックでは、フィギュアの浅田選手や、モーグルの上村選手など、メダルはとれなかったものの、競技が終わった後のあの何とも清々しい、満足感に満ちた様子にも感動を覚えた。特に上村選手は、98年長野オリンピックの初出場からずーっと見ているので、今度こそはメダルをとらせてあげたいなあと、もはや親心のような想いを持って見ていた。結局4位と惜しくもメダルを逃したわけだが、決勝でその順位が決まった後、上村選手はどういう様子でカメラの前に立ち、どういう受け答えをするのかと心配していた(これも親心?)。でもそんな心配は全く無用で、彼女は実に満足感あふれる表情で、やってきたことが全て出せたので悔いはないとの発言。それが本心だということは、まさに彼女の表情が物語っていた。

 結局大事なのは、他者からの評価よりも、むしろ自らの評価なのだ。少なくとも他者からの評価がよくても(オリンピックで言えば、メダルをとっても)、自らの評価で納得いくものがないと、心からの満足感は得られないのではないか。

 金メダルをとった羽生選手が、転倒をしたせいか、インタビューで開口一番「すみません」とか「悔しい」とか言っていたり、浅田選手が、前回のバンクーバーオリンピックでは、銀メダルをとったのに悔し涙を流し、今回は、メダルがとれなくても、満足感で感極まって涙を流していたことからも、それは言えるのではないか。

 受験生も、まさにこうした満足感を目指すべきだ。他者の評価よりも、まずは自らの評価を高めるべきなのだ。合格がどうのと言う前に、覚えるべきことはきちんと覚える、覚えた知識を実戦で使えるよう反復練習をするなどの、目前の具体的なやるべきことはきちんとやったと、自信を持って言える心境になるべきなのだ。

 他者の評価より自らの評価が大事だと言っても、受験は合格しなければ意味がないではないか、とも言いたくなる。確かにその通りなのだが、究極的に、合否というものは学校が決めることで、受験生側ではコントロールできない。コントロールできるのは結局、やるべきことをやるということだけだ。だからそこに脇目もふらずに力を注ぐことが大事なのだ。そしてそれが満足感を生み、よい結果ももたらすのだ。

 オリンピックでメダルをとることと、入試での合格は、求められるレベルがあまりにも違うので、よいたとえではないかもしれない。でも、オリンピックではメダルをとれなかったとは言え、浅田選手や上村選手が見せたあの満足感を、受験生が持てれば、自ずと結果はついてくるはずだ。そう信じて頑張ろう。

やはり、センター試験を見習おう

 毎年1月のブログ記事は(13年12年11年)、センター試験のことを書いてきたが、ここ数年問題の質は大体一定で、多少の変化はあるものの、特筆すべき大きな変化はない。なので今年はもう、センター試験のことを書くのはやめようかと思ったが、年に一度の受験的には大きなイベントだし、やはり触れることにした。

 今年のセンター試験では、第3問Bで、パラグラフから取り除いた方がよい文を選ばせるという、新しい形式の問題が出た。が、特に難しいということはなく、全体的に見れば、難易度も分量も大体昨年並みと言える。

 ただ昨年も考察したのだが、形式には表れない微妙な変化がいくつか感じられた。そもそも全体的な印象を昨年との比較で言うと、昨年が、素早い情報処理力がないと、本文自体が読み進めにくいが、読めさえすれば設問は解きやすい、といったものだったのに対して、今年は、文章自体は去年より読みやすいが、設問の巧みさで点数が調整されているような気がする。

 例えば、第4問Aの問4では、英文の最終段落の内容ではなく、最終段落の後に来そうな内容を聞いていて、引っかかりやすいし、第4問Bの問1では、年齢制限がいつの時点のものかに気づかなければ、迷わしくなってしまうし、第6問Aの問4では、background noiseという、いかにものキーワードに目を奪われると、間違えやすい。

 以上のような問題は、引っかけ問題とは全然言えないが、なかなか上手くできていて、今年は英文が読みやすくなったのに、平均点が昨年と比べてほんの少し下がりそうなのは、こうした問題のせいではないかと、私は思っている。

 ということで、今年のセンター試験の英語の問題は、昨年の直球勝負に対して、若干変化球勝負という感じがするが、それでもやはりセンター試験はよい問題だろう。

 よい入試問題の定義は色々とあるが、突き詰めれば、英語の実力をきちんと判定できることだ。この点で、センター試験はまず分量が多く、そもそも地道な勉強で身につけた真の実力がないと、頭の回転がついてこず、全ての問題をやり通せない。問題が易しいとは言え、小手先のテクニックでは得点に限界があり、実力がきちんと測れる良問と言えるだろう。もっとも今は、他の入試でも長文化傾向が進み、分量の多さは、センター試験独特のものではなくなったが・・・

 些末な知識を問う問題がないのもよい。そもそも特定の知識を問う第2問Aなどを別として(それでも些末なものは問われないが)、読解問題では、特に難しい箇所の解釈を求めるとか、特定の難しい知識を要求するような問題ではなく、段落や文章全体の主旨を問う問題がほとんどだ。このことは、問題の意図の良質さもさることながら、ある1つの知識がないために致命傷を負うということがなく、その知識の不足を、他の知識の運用力でカバーできれば ――― 現実の場面でも、そうやってしのいでいる状況は多い ―――、必ずしも失点につながらない、つまり知識の有無のみで点が決まらないという面でも良質だ(もちろん知識は大事だが)。

 一方で、時代が進むにつれて、大学入試問題は総じて良質化してきたように思うが、それでもまだ私立大を中心に、些末な知識を聞いてきたり、問題の意図が不明瞭だったりと、これで英語の実力が問えるのだろうか、と思える問題が見られる ――― いずれ機会があれば、具体的に述べていきたいと思うが。

 入試というものは、本来選抜のためのものだ。なので受験者間で差がつかなければならない。でも、実力を反映しない問題によって差がつけられるのでは、公平ではない。入試の作問者はその点を大いに考えてもらいたい。

 それ以上に入試というものは、現実的に、日本の学生の勉強の方向性を決めると言ってよい。入試で些末なことを聞けば、学生に些末なことへの対策に時間をかけさせることになる。だから入試問題の質というものは非常に重要だ。私はセンター試験を絶対視しているわけではないが、やはり問題の質やバランスがよいので、各大学のレベルに応じて難易度は変えるにしても、問題を良質化するためには、センター試験の作りは、参考にすべきものではないだろうか。