夏休みは大胆な勉強を
ただ音読しても、ただ問題を解き直しても、効果はない
ネットの情報を鵜呑みにすると危険・・・受験勉強の落とし穴
英語の入試改革は進んできたが、やはり日本は実用英語より教養英語?
しゃべるバクテリア・・・入試英語長文からの究極の学び
このブログでは時折、印象深かった内容の入試英語長文を取り上げているが、最近特に、よく思い出される長文がある。それは、世紀を1つ戻した、1999年の昭和薬科大の問題で「しゃべるバクテリア」の話だ。
あるたとえ話なのだが、内容は次のような感じだ。
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試験管の中にバクテリアがいる。このバクテリアは1分で2倍に増殖する。そして試験管には、この増殖が1時間続けられるだけの食料等の資源と空間がある(つまり1時間で限界が来るので、それ以上は生きられない)。
例えばちょうど11時に、試験管の中にバクテリアが1個入れられると、11時1分には2個になり、11時2分には4個になる。こうしたペースで増え続けていくが、ちょうど12時になると、資源も尽き、空間的にも限界となり、このバクテリアは全て死滅する。
ちなみにこうした増え方だと、バクテリアが死滅する1分前の11時59分でも、まだ試験管の半分しかバクテリアはおらず(つまり半分の空きがあり)、死滅する2分前の11時58分では、4分の1のバクテリアしかいない(つまり4分の3も空きがある)ことになる。
さてこの話では、11時58分ともなると、バクテリアも繁栄を極め、人間のようにコミュニティーを作り、政治家や実業家や環境学者、そして学生なども登場する、という設定だ。
そして11時58分、試験管の中では次のような意見が交わされている。環境学者のバクテリアは、資源が尽きかけていると警鐘を鳴らすが、政治家は耳を貸さず、これまでのバクテリア史上使ってきた資源のまだ3倍もあるのだから、心配いらないと言う。実業家は政治家と同意見だが、資源に余裕があるから、他の試験管にそれを売って利益を上げようとさえ言う。そして学生は、どの意見が正しいのか判断に迷う。
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といったわけだが、この話のポイントは、地球には環境収容力の限界があって、それを超えた人口は支えられないということと、人口は指数関数的に増えるので(あくまでも理論上の話だが)、限界に近づいていても気づきにくいということだ。
この話は専ら、人口の問題のことを言っていて、世界の人口増加の問題(日本は減っているが)は、もちろん憂慮すべき問題だが、私が特にこの話と結びつけたくなるのは、温暖化を始めとした環境問題だ。
最近増えている異常気象・気象の極端化も、これまでの人間の活動への警鐘を鳴らすものとして、つまり危機の始まりとして捉えられがちだが、実はもう限界が近づいていることの表れなのではないか。
今月パリで、COP21という会議が開かれ、これまで以上に本腰を入れて、温暖化対策を行なうようになったが、それでもまだまだ甘いのではないか。
テロといった治安の問題も同様で、最近の世界情勢の悪化も、危機の始まりではなく、危機の最終局面を表しているのではないか。はたまた日本社会の劣化も同様で・・・
と、こんなことを考えていくと、自分は一人気楽に(授業は緊張感を持ってやってますよ)英語を教えている場合なのだろうか、などとも考えるが、もう自分には英語を教える以外のことはできなさそうだし・・・
他者の評価よりも、自分の「思い」
NHK Eテレの、テストの花道という番組がある。名の通り、主にテストで点を上げるための勉強法を教えるものだ。見方によっては、やや型にはめて、単純化しすぎているきらいもあるが、一見つかみどころがないと思われることでも、目のつけどころや、何をすべきかをはっきり示してくれるので、実戦的で分かりやすい。
総じてよい番組だとは思うのだが、先日ちょっと気になることがあった。その日の放送は、文章の書き方を扱っており、自分ならではの観点を持とう、ということがポイントだった。実際にはまずは何人かの高校生に、「私のふるさとのすばらしさ」というテーマで、400字で自由に書いてもらい、それに対して、作文指導の先生やエッセイストの人が評価をする、という構成だ。
残念ながら、その作文がどうしても思い出せず、ここで提示することができないのだが・・・NHKのHPに掲載されているかなと思ったけど、なかった・・・、私の第一印象としては、素朴で、ほのぼのしていて、まあまあいい文なのでは、と思った。
ただ作文の出来云々よりも、印象に残っているのは、先生方の評価のコメントだ。やれ、「小学生の作文みたい」だの、「そんなことは実際に体験したことがない人でも書ける」だの、「中身が薄っぺらい」だの、挙句の果てには「郷土愛を感じない」だの、ダメ出しの嵐。番組構成上、インパクトを与えるためなのかもしれないが・・・それにしても、最近のテレビ番組は、あからさまに相手をディスる(若者言葉、使ってみました)ものが多い・・・、授業に関しては厳しく行なう私でも、生徒に同情してしまうくらいだった。
言われてみれば、先生方の評価もごもっともで、生徒の作文に改善の余地はあった。でもここで問題なのは、生徒の「思い」にまで評価を下そうとしていたことだ。確かに、生徒の作文に拙さはあったが、少なくとも本音で書かれていたとは思われた。だから、その本当の「思い」のより効果的な表現法を助言するならともかく、その「思い」自体を、他者がとやかく言う筋合いはないはずなのだ。
ちなみに私も、受験指導をする立場として、生徒にダメ出しをすることもあるし、特定の考え方に仕向けることもある。でも生徒の「思い」に対して、とやかく言っているつもりはない。それどころかむしろ、数年前から、本音が聞けなくて困惑してしまう。ここで当てはまる法則は何だっけ?みたいな質問には、生徒は躊躇なく答えるものの、長文の内容に関して、この話あなたはどう思う?と聞くと、戸惑いを見せる。また、長文問題を初見で解いた時の自らの感触なども、答えづらいようだ。
日本の若者は(最近は大人もだが)、自分の意見を言わないとよく言われるが、それは上のような、自分の「思い」を否定されることが、大きく影響しているのだと思う。もっとも、ここで話題にしたテレビ番組だけを批判しているのでは全然ない。のんびりした雰囲気で見ていた時に、あまりにも激しいツッコミがあり、それが強く印象に残ったので、話の切り口として利用させていただいただけで、こうしたツッコミは、程度の差こそあれ、日本の至るところで・・・学校で、塾で、友達同士で、家庭で・・・行なわれているように思う。
結構前から日本では、個性を生かそうという教育方針になっているはずなのに、未だに、思ったことを言うことが奨励されない。だから日本の大多数の人は、自分の意見を考えるよりも、空気を読んで、その場にふさわしい意見を考える方に力を注ぐ。
本音が言えない教育をずっと受けてきたら、そうした人が育ってしまうのは当然だが、一方で就職してからは急に、変化の激しい、グローバルの時代、より個性的な発想が必要だ、などと言われる。酷な話だが、現代は確かにグローバルの時代。実際に個性的な発想は求められる。ただそれよりも前に、グローバルなコミュニケーション、つまり思ったことをはっきり言うことが必要だ。
と言いながらも、これまでの経緯を考えると、今後も、教育現場での、いや日本全体での、思ったことを言うことが奨励されない空気は、あまり変わらない気がする。だから、とりわけグローバルに活躍したい学生諸君は、周囲の人の受けがよさそうな意見を言う一方で、揺るぎない自分の意見を常に持ち合わせておく、といった自衛策を立てておいた方がよい。
さて冒頭の、文章を書くことに話を戻すと、情報発信の盛んな現代、文章を書く力は絶対にあった方がいい。もちろん、自分の「思い」がこもった文を、だ。確かに学生時代は、入試の小論文を始め、他者の何らかの基準に則って、評価がなされる中書くことが多いだろう。だから、自分の「思い」というよりも、評価が高そうなことを優先して書くこともやむを得ないと思う。でも将来的に必要になるのは、そつのない優等生的な文が書けることよりも、やはり自分の「思い」がしっかり表れている文が書けることだ。学校を卒業した後に文章を書くのは、もはや試験の時ではなく、実際に言いたいことがある時だろうから、その言いたいことがしっかり表れているかが、価値基準となる。というわけで文章に関しても、学生諸君は、他者の評価が高そうな文章を書くにしても、自分の意見もしっかりと持ち、できたら そちらも表現をしてみる、といった自衛策を立てておいた方がよい。
ちなみに私自身、文章を書くのは苦手で、自分の書いたものを読み直すと、色々と気になるところがあるが、中でも一番気になるのが、自分の頭の中にある思いや考えに比べて、書かれた文章は、どうもスケールダウンしているように思えることだ。つまり自分の「思い」がしっかり表れていないのだ。修行しなければ。
学力の二極化 その2・・・対策の鍵は意識変革
昨年も、学力の二極化について書いたことがある。以前なら出来る側に入っていた中間層が、出来ない側に回ってしまい、学力の二極化が起きている、という内容だ。そしてその理由は、中間層が、基本が確立しないまま、出来る人の勉強をまねてしまうから、さらに言えば、中間層が、単語や基本文法など覚えるべきことを確実に覚えないまま、問題集をこなすといった実戦的な勉強をメインにしているからだ、と述べた。
出来る人の勉強法は、実戦的な問題集をどんどんこなしていく、といったことがクローズアップされるが、当然ながら、それが出来るから、あるいはそうしていて意味があるから、やっているのだ。
例えば長文問題集では、全てとは言わないまでも、出てくる単語の大半は分かり、主旨をつかむには支障がないレベルになっていて、設問を間違えるにしても、そう多くはなく、解説を見ればすぐに納得がいくことが多い。いずれにしても、覚えていなかった単語を新たに覚えたり、分からなかった解法を習得したり、といった復習をするのに、そう時間はかからず、問題集を進めるペースが大きく乱れることはない。
でも、出てくる単語がほとんど分からないという状態で、長文問題集に取り組んでも、そもそも英文が読めないのだから、実戦力を鍛える勉強にはならない。ましてや、よいペースを維持したいからと言って、分からない単語を放置して、どんどん先に進んでも、何の意味もない。
だから、そのような状態の場合、実戦力は置いておいて、まずは単語の暗記などに徹するべきなのだ。そしてそれこそがまさに、中間層を出来る側に押し上げる、骨太の勉強法で、私は昔から、基本が出来ていない生徒には、問題集をこなさせるよりも、単語や文法といった基本事項の暗記を徹底させてきた。仮に問題集をやるにしても、数をこなしてナンボではなく、覚えてナンボ、という意識に変えさせてきた。
ところが(ここからが、今回の記事の本題だが)、最近どうも、この意識変革が難しくなっている。別に面倒だから嫌だとか、反抗しているという訳ではないようだ(最近の生徒はむしろ真面目なので)。そうではなく今の生徒は、ある意味頑固になったというか、元々ある世界観を変えるのが難しいのだ。
幸い元々、基本事項を確実に覚えるべきだ、という認識を持っている生徒は、昔も今も、事がスムーズに運ぶが、そうでない生徒に、認識を変えさせるのが、今は非常に難しくなっている気がする。
自分の考えに自信を持つことは、もちろん大事だと思う。でもそれを絶対視したり、他者の考えを受け入れないのはよくない。高校生でも、もう全てを悟っているかのように話す人がいるが、若いのだから、自分にはまだ知らないことがたくさんある、と思う方が自然ではないか。
ただ、生徒本人は意識を変えているつもりでも、そうなっていないということもありそうだ。根本的に世界観が違うものを理解するのは、思いの外難しい。分かったようで、分かっていなかったりする。
長文問題集をどんどん進めるべきだと思っている人にとって、こちらの問題集の方がいいよ、といったアドバイスは、すんなり受け入れられるが、問題集をどんどん進めること自体が間違っている、という意見は、なかなか受け入れられない。そもそも思考回路にないので、無意識に聞き流してしまったりする。
このように、全く違った考えは、そうすぐに理解できたり、納得できたりするものではないのだから、理解や納得を待って次に進むというよりも、まずはとにかく、言われるがままにやってみる、ということも必要だと思う。やっていくうちに、自分の中に変化が起こり、変化した後だからこそ、ようやく納得がいくということもあるのだから。
英語に限らず、学力を上げるために、皆何らかの方策を考えるだろうが、今までの延長線上で考えることが多い。もちろんそれでよい場合もあるが、そうでない場合もある。少なくとも、今までのやり方で上手くいかなかったのなら、画期的に違う方法を試してみる価値はあるのではないか。たとえ最初は納得がいかなくても。
今の生徒は、昔に比べて、納得感をより求めてくる気がする。もちろんこれは、自然なことだが、所詮その納得感は、まだ変化していない自分が感じるものだ。よりダイナミックな変化をもたらしてくれるのは、今の自分では納得がいかないほどスケールの大きいことだったり、全く世界観が違うものだったりするかもしれない。
特に中間層の人、つまり出来る側に回るか、出来ない側に回るかの分かれ目にいる人は、ぜひ勇気を持って、違った世界に足を踏み入れてほしい。そして出来る側に回ってほしい。
私は私で、納得感云々を話題にせずとも、知らぬ間に骨太の勉強をするようになる、といった方法も考えているのだが、果たして、そうした方法が見つかるかは微妙なところだ。今はとにかく、生徒にチャレンジしてもらうよう、上手く働きかけるのみだ。