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ある家庭教師の独り言

聞く・話すが大事と言っても・・・

 ウチに通っている、ある中高一貫校の中学生に、学校の授業内容を知りたいので、ノートを見せてくれるよう頼んだところ、ノートはないと言う。なかなか衝撃的な返答で、最初は、ノートもとらないほど授業を聞いていないのかと思ったりしたが、よく話を聞くと、そうではないらしい。どうやら学校の授業では板書というものがなく、また何らかのメモをとるようにという指導もされず、結局ノートを使う場面がなかったのだ。

 では一体学校の授業では何をしているのかというと、教科書の英文が読まれるのを聞いたり、後について読んだり、英語での質疑応答をしたりとのことで、授業時間はほぼ全て「聞く」「話す」という作業に終始しているようなのだ。和訳や、新出単語を覚えるようにとの指示や、文法の解説もないままに・・・ その結果当の生徒は、英語というものが、何が何だかわからなくなり、英語110番に来ることとなった。

 上のような例は極端にしても、最近は、実践的なコミュニケーション能力が重視されるようになったこともあって、学校の指導でも「聞く」「話す」に重点を置いた指導が増えている。これ自体はよいことだと思うのだが、これまでの「読む」「書く」が中心だった指導を改めようという反動からか、逆に「聞く」「話す」に偏りすぎではないか、と思える指導も見受けられる。

 ただ何よりも私が怖いと思うのは、「聞く」「話す」という領域にこだわるあまり、上の例のように、肝心の「知識の定着」がないがしろになってしまうということだ。大体「聞く」「話す」と言っても、知らない(頭の中に定着していない)ものは、聞き取れないのだし、話せもしない。一方「読む」「書く」の学習で学んだものも、しっかり身についているのであれば、それは聞き取れるはずだし、話すこともできるはずだ。

 要は、領域先にありきなのではなく、「知識の定着」が優先なのだ。そしてその前提の上に、「聞く」「話す」「読む」「書く」の4つの領域をバランスよく行なうよう注意しようということなのだ。ちなみに、現在の学習指導要領を見ても、決して「聞く」「話す」を重視するといった記述はない。4技能を総合的に育成するとなっているだけだ。

 英語の指導では、「読む」「書く」においても、多少わからないところがあっても、どんどん読み進めて全体の主旨をつかもうとか、多少の文法ミスは気にせず、内容的にまとまりのある英文を書いてみようというように、曖昧さを許容することがある。もちろんこうした指導を時に取り入れることは大事だが、「聞く」「話す」においては、どうもこの曖昧さの許容がより強まる傾向があるように思う。だから実際、とにかくたくさん聞いていればそのうち慣れるよとか、聞けるようになればそのうち話せるようになるよ、などと言われたりする。

 なので本来、「聞く」「話す」はもちろん英語の大事な領域なのだが、間違った方向で重視しすぎると、単に「読む」「書く」が疎かになるというよりもむしろ、「読む」「書く」を含めて、英語の勉強は曖昧でよいのだといった、間違った姿勢を植えつけてしまいかねない。小さい頃からネイティブのように英語を身につけたのならともかく、そうでないなら、そんな曖昧な勉強では、大学受験に対応できるレベルには高まっていかないと思う。単語や文法法則等、覚えるべきものはきちんと覚え、それらを適用して英文を理解する練習をし、そしてその英文も、どうにかわかるという状態から、しっくりくる状態になるまで何度も反復し、それから次のステップに進むといった、つかみどころのある、そして成長過程が実感できる勉強が必要だ。

 ちなみに上述の生徒には、現状を改善すべく、また学校の指導で抜けている部分を補うべく、まずはノートを用意し、教科書の英文とその和訳、新出単語とその意味を書いてもらい、文法の解説も行ない、ポイントはノートに書いてもらい、一通り理解した後は、定着を図るために、単語を何度も書いて練習してもらったり、英文を何度も読んでもらったりしたことは言うまでもない。

ブログ・3年経過

 私がこのブログを書き始めたのは、2010年の10月だ。丸3年が経ち、今月で4年目に入る。感無量とまではいかないが、決して文章を書くのが好きではない私が、よく3年も続けられたなと、我ながら感心している。

 そもそもブログを書き始めたのは、個人的な意見を発信する必要性が高まってきた、と感じたからだ。個人運営の家庭教師の宣伝手段として、以前からホームページは開設していて、連絡先や授業料、指導理念などの、事務的な情報や、不変的な内容は載せていた。ただ時代が進むにつれ、そうした固定的な情報だけでなく、ブログや、さらにはツイッターフェイスブックなどで、その時その時の、何らかの事象についての生の声を発することが、一般的になってきたので、私もその手法を取入れたのだ。

 実際、家庭教師の指導を依頼していただくに際しては、やはり私がどういう人なのかを伝える必要があるが、それを直接的に語るやり方に加えて、日々の授業や、教育や、社会など、様々なことについて、その時々に何らかの意見を述べ、その意見によって人物像をイメージしていただく、という方法も大事かなと思う。

 ちなみに今の私の立場では、毎日のように頻繁に、不特定多数の人に、情報を発信する必要性は感じないので、ツイッターフェイスブックは使っていない。

 3年前に初めて書いた記事は、「貧者の兵器とロボット兵器」というタイトルだ。遠隔操作の無人兵器によるアメリカの軍事攻撃の問題を扱った、NHKスペシャルというテレビ番組を見ての感想を書いたものだ。何とも意表を突いたもので、今になって改めて見てみると、家庭教師のブログの最初の記事がこれか!、と自分でも驚くが、ちょうどブログを始めようと思った時期に、たまたまその番組を見て、あまりの衝撃的な内容に、書かずにはいられなくなったのだと思う。

 その内容が、家庭教師のブログに、しかも初回の記事にふさわしいのか、ということも考えたと思うが、当時は、ブログには、むしろ本業とは関係ないことを書くのがよいと思っていた節があり、とすれば、この衝撃的な内容は、まさに初回にうってつけだと考えたように記憶している。

 でもブログを書き進めていくにつれ、結局内容は、本業と関係した、日々の授業教育のことが中心となり、社会的なこと、その他のことは、たまに書く程度となった。

 書く頻度は、当初は月2回と考えていたが、ブログを始めて半年くらいして、月1回に落ち着いた。この程度の文章を書くだけでも、私にとっては意外と大変で、長く続けるには、月1回くらいがちょうどよいかなと思えるようになったのだ。ただ一方で、1回毎の文章量は、初期に比べれば長くなっていて、久しぶりに初回の記事を見た時は、こんなに短かったんだと、少し驚いた。

 私のブログが、多くの人の反響を呼んでいるということは全くないし、それを目指してもいない。でも、これから英語110番に入会しようかと考えている方や、すでに入会している方には、結構見ていただいているようで、嬉しく思うし、ある意味目的は果たせている。そしてそれが、ブログを書き続ける十分なモチベーションになっている。

 さらに、ブログが続けられたもう一つの要因は、習慣化だ。実は今でも、ブログを書く段になると、ちょっと気が重くなったり、今月は書くのやめちゃおうかな、という考えが頭をよぎったりするが、それでも続けられているのは、もうブログを書くことが、完全に習慣化しているからだ。やめようと思うことがあっても、もはや書かない方が気持ち悪いのだ。

 勉強においても、習慣化の重要性はよく言われるところだ。実力をつけるには、継続的な勉強をしなければならないが、そのために最も重要なのは、習慣化だ。もちろん、その勉強に興味を持ったり、意義を考えたりすることから入るのも、一つの手かもしれないが、ある程度のレベルにならないと、本当には興味を持てないことも多いし、その勉強の意義がわかったところで、遠くの大目標に思いを馳せるだけで、目前のやるべきことをやるという原動力にはならなかったりする。まずは始めてしまい、習慣化するのが先だと思う。

 ブログを始めて3年が経ったのを機に、勉強を教える側の私も、改めて習慣化の重要性を実感した。学生の皆さんも、改めて意識していただければ、と思った次第だ。

理不尽な評価は現場を歪ませる

 川勝・静岡県知事の、全国学力テストに関する発言が話題を呼んだ。小学校国語Aの正答率が、全都道府県で最下位だったことを受け、県内の点の悪かった下位100校の校長名を公表すると言うのだ(紆余曲折があり最終的には、上位の学校の校長名を公表することに変更したが)。

 報道から受ける印象としては、自分の県が最下位だったという衝撃、あるいはそれにより面子が潰されたという怒りなどで、感情に任せて発言したように思え、何か違和感がある。

 そもそも全国学力テストの結果は、学校名を公表しないというルールなのに、自治体のトップがそれを率先して破るのは問題だ(知事は学校名ではなく、校長名を発表するのだから問題はないと言っているが、詭弁だ)。

 また公表するのを、下位100校としたのは、必然性があってのことなのか。明らかにその100校は、校長名を晒されるという仕打ちを受けるほど、点数に問題があったのか。文部科学省(の関連機関)が公表している結果からすると、都道府県あるいは市町村で、有意な差は見られなかったとのことだが、静岡県だけは違ったのだろうか。

 公立の小学校は人格教育も含めて、色々なことをしなければならない。国語力の養成を第一の目標とはしていないし(もちろん大事な目標の一つではあるが)、生徒も通常、それを第一の目標として入学するわけではない。それなのに、国語という一教科の、しかも一回のテストの出来で、自治体(のしかもトップ)からこんなにも責められるのだから、現場の先生も大変だなあと同情してしまう。

 このような理不尽な評価(圧力と言ってもいい)は、問題の解決にならないどころか、歪みを生じさせ、事態をむしろ悪化させる。

 実際6年前、足立区の小学校において、区独自の学力テストで、成績の悪い生徒の点数を集計からはずしたり、テスト中に監督の教師が、答が間違っている生徒に、それとなく合図をしたり、といったことが行われた。当時足立区では、学力テストの結果によって、各学校に配分する予算を変えていたため、一部ではあるが、不正に走った学校が現れたのだ。

 本来区立の小学校は、学校ごとにそれほど大きな学力差はないはずだが、テストというものを行えばその性質上、どこかがトップになり、どこかがビリになる。大きな差でなくても、上位か下位かで予算が変えられるというのは、理不尽な評価で、不正を行う学校が現れても不思議はない(肯定するつもりはないが)。一方何らかの条件で、勉強が不得意な人が多い地区があるかもしれない。そうした地区の学校は、学力テストのようなものではハンデを負うことになるが、それが何ら考慮されないのも、フェアでない気がする。

 いずれにしても、有意な差でなくても単に上か下かで評価をされ、ましてや予算まで変わるというのは理不尽だし、学校が如何ともしがたい外部の要因が、一切考慮されずに評価をされ、ましてや予算まで変わるというのも、理不尽だ。

 いじめの問題も、理不尽な評価が、事態を悪化させている例だろう。

 いじめはゼロが理想だが、現実問題、学校でいじめが起こらないことはあり得ない。なのに、とにかくいじめがあるというだけで評価が下がる。いじめがないことより、いじめがあってもそれに上手く対処できたかの方が重要で、意義があることのはずなのに、そのことは考慮されない。その結果どんどん、教育現場は隠蔽体質となり、学校関係者が記者会見で、躍起になっていじめの存在を否定する、という姿を頻繁に目にするようになってしまった。

 高度に情報化が進み、至る所で評価をされる現代において、公立の学校だけ、何の評価もなされないというのは不自然な気がするし、教育界にも競争原理を取り入れて、学校や先生の質を高めたいという思いもよくわかる。でも上述のような理不尽な評価での競争となると、現場を歪ませ、事態を悪化させる。改善したように見えても、それは表面上のつじつま合わせの結果で、本来の教育をよくしたいという思いとは、違う方向に進んでしまう。

 だから、自治体(の特にトップ)や、教育委員会等には、もう少し本質を考えた発言や行動をしてもらいたいし、国民の側も、あまり過剰な要求をしないようにしたい。本当の意味で教育を改善したいなら。

やる気がない時は放っておくのがイチバン・・・現代はムリかな

 これと言う特定の理由があったわけでないが、私は高1、高2の時にやる気をなくし、ほぼ全く勉強しなかった。高3になって、ひょんなことから(と言っても、理由を明確に挙げるのは難しいのだが)勉強をし出し、そして1年の浪人を経て、何とか大学に受かったのだ。

 ちなみに、勉強をしなかった高1、高2の時は、どう過ごしていたかと言うと、とても楽しくとまでは言わないが、特に悲嘆に暮れていたわけではなく、ごく普通に過ごしていた。これは、親、先生、友達が、私を放任してくれたおかげだ。とにかく周囲の人は誰も、勉強しろとはほとんど言わなかった。

 親は、私が中学の時までは比較的うるさかったが、高校生になったら、もう言って聞かせようとしても無理だと思ったのか、何も言わなくなった。先生に関してだが、当時(約30年前)の私の高校(神奈川の某県立高校)の先生は、悪く言えばいい加減(失礼!)、良く言えば大らか、放任、生徒の自主性に任せるという感じで、私が勉強しないことに関して、特にうるさくは言わなかった。小言くらいは言うものの、ひどく責めるわけではなく、蔑むわけでもなく、また無言の圧力をかけるわけでもなかった。もちろん高校なので進級の問題があり、赤点の課題などはしっかり行なうよう求められたが。友達も「しょうがないヤツだ」とか「もう少し勉強しろよ」くらいは言うものの、勉強するしないは本人の問題だというスタンスで、少なくとも、私が勉強をしない、成績が悪いということで、人格まで否定するようなことはなかった。ちなみに私は高2にもなると、成績が悪いことを自分からネタにするようになっていて、私の成績の悪さは校内では結構有名だった。なので、他のクラスのそれほど面識のない生徒も、私のところにテストの点を確認しに来ることさえあった。私に負けてはヤバいので、私より点がいいかどうかを確認しにくるわけだ。幸い(?)ほぼ毎回私が負けるので、皆ホッとして帰っていったが。

 と、このように、昔の周囲の人の寛大さのおかげで、高校もそれほど居心地の悪い場とはならず、私も腐らずに済んだ。今になって振り返ると、これは非常にありがたいことだった。高3になってからは、さすがにこれではいけないと思い、今までの分を補うかのごとく、必死に勉強したが、そのパワーが生み出せたのは、勉強しなかった高1、高2の時も、あまり思い悩まずに過ごせて、精神が無駄に疲弊しなかったからだと思えるのだ。実際当時の私のやる気のなさは、なかなか凄いものだったので、やる気がない時にあれこれ言われても、事態が余計悪化しただけだったと思う。

 翻って現代の社会は、高度に情報化が進み、徹底した管理、評価が求められる、気の抜けないものとなった。学校という組織もそうした社会の影響を免れないようだ。もう昔のような寛大さを求めるのは無理なのかもしれない。でも長い人生、どこかでやる気をなくすこともある。そうした時期がちょっとあるだけで、何もかもダメになるという事態は、せめて学校では起こらないようにと願うばかりだ。また現代は、生徒の側でも、正規の道を逸れてはいけないという、心理的な圧力が強まっている気がするが、実は逸れたとしても、その気になれば何とでもなるものなので、そうした大らかな気持ちを持っておくことも、現代を生き抜くコツだと思う。

 かく言う私の今の家庭教師という仕事は、学校の成績を上げる、入試に向けた実力をつける、という明確な目標に対応しなければならず、上述のような寛大さを発揮するのは難しい。結局私も、気の抜けない現代社会に加担しているではないか、というジレンマを感じる。

 でも一方で、やる気がない時に勉強しても成果は出ない、本来のカリキュラムから逸れても復活は可能、ただし相当な努力が必要、といったせっかくの自らの体験で身にしみてわかったことを、はっきり伝えるのも、今の私の立場では必要なことだと思うので、それはそれでしっかり行なっていきたい。

 根本的なジレンマの解消は、ずっと先になるだろうか。

単語は自分でできる?

 夏休みとなり、入会希望者の体験授業も増えてきた。体験授業では、こちらの授業のやり方を示すとともに、色々と話を聞いたり、テストの点などのデータ類を見たりして、生徒の現状を分析し、今後の授業の方針、自らの勉強の仕方の注意点などを提示している。

 そこで私が言うことが多いパターンは、「一番のポイントは単語の暗記だ。とにかく単語の暗記を徹底してやらなければならない。」というもの。それに対し、「ポイントが単語なら、自分でできる。」と言って、入会しない生徒が少なからずいる。果たして本当に、単語は自分でできるのだろうか?

 もちろん一般論としては、単語は自分でできて何の不思議もないし、本来は自分でやるべきだ。でも、英語に困って、英語110番の門を叩くに至ったような状況の人はにとっては、単語が自分でできるか(もしくは単語を本当にやろうとしているのか)は正直言って疑わしい。そもそも、本当の意味で単語を自分で勉強できるためには、次のことが必要だ。

 1、継続的にやる気が維持できる
 2、自分の状況が正確に把握できる
 3、暗記の方法がわかる
 4、何を覚えたらよいかがわかる

 1について・・・最も重要なポイントで、技術論では解決できないやっかいなものだが、ともかくこのやる気がなければ始まらない。しかも継続的なやる気がなければ、暗記の作業は続かず、一時は覚えたにしても、結局忘れてしまい、なかなか単語は定着しない。

 2について・・・ここで特に大事なのが、単語を練習した結果、それで自分が覚えたのか、まだ覚えていないのか、判断ができるということだ。本来これはチェックすれば簡単にわかるのだが、勉強しているということ自体に満足してしまい、成果には意外と無頓着だったり、恐らく覚えているだろうという、希望的観測のみで判断を下したりと、上手くいっていない例が多いように思う。ちなみにこの判断ができないと、先に進むべきか、もう少しとどまって練習を重ねるべきか、あるいはそろそろ以前の復習をすべきか、といった判断も誤ってしまい、ここでもうひと押し練習すれば忘れなかったのに、それをせず結局忘れてしまったという、もったいないことが起こりがちだ。

 3について・・・労をかけずして覚えられるといった、夢のような暗記法は残念ながらない。暗記をするには、やはり一定の労力をかけることが必要だ。ただせっかく労力をかけるのなら、それを無駄にしないよう、次の点に注意したい。まずはよく言われることだが、五感を使うこと、具体的には、発音を聞き、自らも声に出して発音し、手を使って書く、ということが重要だ。脳に多種類の刺激を送ることが、記憶の定着を促進するのだ。単語暗記が苦手な人は、ただ単語集を眺めているだけというパターンが多いが、これではやはり刺激が少ない。もちろん反復作業も重要だ。一度練習したくらいでは忘れるのが普通なのだから。その際、どのくらいの頻度で、どの程度反復するかもポイントとなるが、その判断には、2で述べたように、自分の状況が正確に把握できることが必要になる。

 4について・・・大学受験が目標ならば、それに即した単語集を使うことが、何を覚えたらよいかを最も簡単に把握する方法だろう。ただ一口に単語集といっても、上級向け、初級向けとあり、生徒の今のレベルや、目標とするレベルによって、適切な選択が求められる。また、どの意味を覚えるかも重要だ。私は受験向けた単語暗記に際しては、基本的に、受験によく出る「1つ」の意味(大体単語集では、それは赤字で示されている)を「確実に」覚えることがポイントだと思っている。あれもこれも覚えようとすると、結局どれも頭に残らないことが多いからだ。ただ中には、2つ(またはそれ以上)の意味を覚えなければならないものもある。例えば appearは「現れる」と「~に見える」の2つを覚えなければならない。中学基本語だが、中学では習わない意味を覚えることも重要だ。例えば thenは「その時」「それから」だけでなく、「それなら」も覚えるのが必須だ。こうしたことを認識していないと、その単語を知らないわけではないが、必要な意味が覚えられていなかった、ということになってしまう。何を覚えたらよいかは、実は奥が深く、重要なポイントなのだ。

 以上のことを踏まえてもなお、もちろんそんなことはわかっているし、実践もしているというのなら問題はない。本当に単語は自分でできるだろう。でもそうでないのなら、英語110番の指導を受けていただくか、またはコーチ役になってくれる人を見つけ、以上のことを的確に指導してもらう必要があると思う。

 ちなみに生徒や保護者の方、さらには同業者からも、単語を教えると言っても一体何をやるのか、と問われることがあるが、それは以上のようなことにきちんと対処をするということだ。すなわち、生徒にやる気を出させ、かつそれを維持させ、生徒の現状や目標を把握して、それに基づいて何を覚えたらよいかを的確に指摘し、正しい暗記の方法を実行させ、どのくらい覚えたかを指摘し、適宜反復もさせ、必要な単語を確実に定着させる、そしてそれらの作業が自ら自然に行なえるようにする、ということだ。

従来の教材が使えない?

 恐らく、私は頑固な方なのだろう。そもそも、自らの思いを貫くために、独立して一人で教えているくらいなのだから(3月の記事参照)。でも、やみくもに頑固な訳ではなく、状況には柔軟に対応しているつもりだ。その一つの表れとして、従来よく使っていた教材が、あまり使われなくなったということがある。時代の移り変わりとともに、学ぶべきことの中心が変わったり、入試問題の質が変わったりして、それらに対応した結果だ。

 例えば「精読」という教材がある。本格的な長文問題を行う前の下準備として、数行の英文をじっくり訳すというもので、オリジナルでも作成している(→見本)。従来精読の教材は、習った文法事項を長文読解にどう適用するかを学ぶことが中心だったが、こうした教材の出番がだんだん少なくなってきた。それはやはり、入試の質が変わって、文法や構造が複雑で難解な英文を読み解く必要性が減り、一文の難解さはそれほどでなくても、より長く情報量の多い文章から、主旨や重要なポイントがつかめたかを問うことが増えてきたからだ。

 そこで問われるのは、難解な英文を読み解く能力というより、論旨の展開をきちんと追いながら、筆者の言いたいことを確実につかむ力だ。こうした力を育成するのに、やはり従来の教材では対応しきれず、新しい教材を作成した(→見本)。文法の適用というよりも、主旨をつかむには、何に注意して読んだらよいかということを学んでもらう教材だ。

 このようなある項目に的を絞った教材の他に、入試過去問の長文等で、よい練習になるものが、レベル別、ジャンル別にリストアップされており、適宜選択して利用している。ちなみに最近使用した中で印象深かったものとして、2012年明治大(法)の2番の長文問題がある。途中論旨が分かりにくくなるところがあるが、そこを乗り越えられるかが1つのポイントだ。動物に対する我々人間の意識を再考させるもので、内容的にも興味深い。レベルは中上級向けで、語数は1000語程度と長め。興味のある人はぜひ解いてみていただきたい。

 と、このように、状況の変化には十分に対応しているつもりだが、読解においても、また4択問題等でも、難しい文法があまり問われなくなったと言っても、英語学習において、文法をやらなくてよいということにはならない。ネイティブでない我々日本人が、大学入試レベルの高度な英語に対応するには、やはりベースに文法は必要だ。ただ以前のように、マニアックな知識や、意地悪で瑣末な文法問題にまで対応できる力は、必要なくなった。なので、文法の扱いは相対的に軽くしてよいとは思うが、この「軽く」には注意が必要だ。

 ウチに来る生徒は、年々文法力が下がっている気がするが、聞くと、どうも学校できちんと文法を習っていないことが多いようなのだ。上述のような変化を意識してか、あるいは、これまでの文法中心主義を改めようという気持ちが強いのか、文法の扱いがまさに軽いのだ。その扱い方は、解説をほとんどせずに、ただ問題集を解かせるというもの。何となく分かればいいから、などと言われつつ。

 でも、この軽さは何か違うと思う。そもそも勉強において、何となく、または曖昧な形で定着させるという、器用なことはできない気がする。少なくとも、勉強した段階では、明確な形で確実に覚えるべきだ。そうであっても時が経てば、得てして知識は曖昧になっていくものなのに(もちろんそうならないよう復習をするのだが)、初めから曖昧では、時が経てば、もはや何もなくなってしまう。

 私も文法の扱いは軽くしてよいと言ったが、私が思う「軽さ」は、ただ扱う項目を減らすというだけだ。きちんと理解して確実に覚えるという、勉強の精度は全く犠牲にしない。むしろ項目は絞ったから、その代わり確実に覚えてくださいね、というスタンスだ。少なくとも文法を習いたての時は、とりわけ重要単元(私が思うのは、品詞、文の要素、不定詞、動名詞、分詞、関係詞、接続詞)においては、そういう姿勢で勉強すべきだ。そうすることによって、体系的に文法が頭に収まり、文法的視点というものが養える。こうなれば、あとは問題集を解いておいてと言うだけでも、ある程度指導は成り立つ。

 元々私の英語学習のモットーは、「的を絞って確実に」なのだが、こと文法においては、「頑固に」それを貫きたいと思う。