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ある家庭教師の独り言

長文が読めないのに長文をやる・・・考えてみればおかしな勉強

 「英語の長文が苦手なのですが、どうしたらよいでしょう?」という相談に対して、「長文をたくさん読んで長文に慣れよう」という指示がされることが多い。これは、ある意味正しいかもしれないが、そうした相談をする人の一般的な思いを考えると、必ずしも正しいとは言えなくなる。

 そもそも長文が苦手だと、長文をたくさん読むことは出来にくい(逆にたくさん読めるくらいなら、苦手ではないことになる)。だから上の指示を守ってたくさん読むためには、精度を下げた大ざっぱな読み方をするか、現段階でも楽に読める易しい教材を選ぶ必要がある。

 大ざっぱな読み方でも、難しい長文にチャレンジすることは必要な勉強だが、それだけでは、根本的な力の底上げにはならないし、一歩間違えると、どんな時でも雑に読む癖がついてしまう。一方、易しい英文ならたくさん読むことはしやすいが、難しい長文が読めるようにはならない。

 恐らく、長文が苦手でどうしたらよいかと相談する人の多くは、今読めるより難しい長文が読めるようになりたい、という思いがあるはずだが、結局どちらのやり方をしても、その目的にはかなわないことになってしまう。

 でも考えてみれば、これは当然のことだ。長文が読めるようになるために長文をやるというように、目的と手段が同じになってしまっているのだから。

 本来これはおかしなことで、例えば、逆上がりが出来ない人に、たくさん逆上がりをして慣れればよい、という指導はしないはずだし、泳げない人に、とにかく泳げばよい、という指導はしないはずだ。

 なのに勉強においては、意外とこの本来おかしなことが、まかり通ったりする。上述の英語長文の件の他にも、国語が苦手な人に、本をたくさん読みなさい、と指導するのもその例だ(そもそも国語が苦手だと本はたくさん読めないはずだが)。

 最終目標に至るには、色々な過程があり、順を追ってその過程を進んでいくべきなのに、最終目標ばかりに目がいってしまい、最終的に出来るようになればよいことを、早くも練習の過程で取り入れてしまうという過ちが、勉強では意外と見られる気がする。

 逆上がりが出来ない場合、まずは筋トレをするとか、足で蹴る練習をするとかをして、最終的に逆上がりが出来ることを目指すはずだが、英語の長文となると、長文を目指すならやはり長文をやるべきだ、となってしまいがちだ。

 もちろんある時には、上述のように、たとえ読みの精度が下がっても、難しい長文に取り組んだり、易しい長文を多く読んだりして、長文に慣れるという作業は必要だ。でもそれだけでは、根本的なレベルアップにはならない。

 一時は長文から離れて、単語・熟語をひたすら覚える、短い文をきちんと訳す、という作業を積んでから、長文に取り組んだ方が効果的なことが多い。特にかなり苦手なところから始めるのなら、なおさらだ。

 今は大事な夏休みの時期だ。入試本番を意識した実戦面が気になるかもしれない。でも最終的に求められることが、今やるべきこととは限らない。目的と手段を混同せず、パランスのよい勉強をすることが必要だ。