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ある家庭教師の独り言

実用英語が身につかなかった理由は、技能の偏りだけではない

 先日、現在のセンター試験に代わる新しいテスト(平成32年度から実施)の案が示された。そして英語に関しては、聞く・話す・読む・書くの4技能を測定する、TOEFLなどの外部試験を導入するとのことだ。特に英語に関する案は、以前から注目していたが、実施時期が6年後だと明示されると、より現実感を持って受け止めるようになる。

 こうした変化は、国際化が進み、実際に役立つ英語力を身につけさせなければならない、という状況に対応したものだ。これまで大学受験では、ほとんど「読む」ことしか問うていなかったため、学生もそれに合わせて「読む」勉強しかしなかった。なので、聞く・話す・書くという他の3技能はほとんど手つかずで・・・「書く」に関しては英作文対策などで一定の勉強をする場合も多いが、入試で出題される割合は「読む」に比べて、圧倒的に少ない・・・、中学、高校と英語を勉強しても、実際の場面で使える英語は身につかなかった。

 そこで、こうした大学入試で問われる技能の偏りを改め、実際に役立つ英語力を判定しよう、ひいては学生を、実際に役立つ英語の勉強に向かわせようということだ。大学入試というものは、何だかんだと、学生の勉強の方向性を最も決定づけるものなので、その大学入試が変わる意義は非常に大きい。今回の改定案は大いに歓迎だ。

 しかし、これまで実用英語の習得を阻害してきたものは、技能の偏りだけだったのかと言うと、そうではない。実はもっと深い根本的な問題があったと、私は思っている。それは大学入試が、一般的でない例外的に難しいことを中心に問うてきた、ということだ。

 例外的に難しいことを問うとは、一般的とは言えない構造の複雑な英文の解釈を求めるとか、実際には使う頻度の低い特殊な語句の意味をストレートに問うとかだ。問うている英文そのものはごく普通でも、あるいは英文全体の主旨を問う一見良質な問題でも、設問の選択肢をあの手この手で複雑にして、結局難解にしてしまう問題も、同じ範疇と考えられる。

 時代を遡れば遡るほど、こうした問題が多く、実際私が受験生の頃(1980年代)、長文の内容は大体わかっているつもりなんだけど、設問のところに限ってわからないなあ、という思いをよく持った。もちろんそれは、重要事項を忘れていた自らの失態のせいもあったが、今になってみれば、上述のような問題の性質によるものも多分にあったと思う。

 もちろん、全ての大学の全ての問題が、そうした例外的に難しいことばかりを問うているわけではないが、少なくとも私立大の大半の入試問題は、このような類のものだったと言える(国立大も問題点がないわけではないが、比較的良質)。そうした問題が一部ならよいのだが、大半がそうだとなると、実用英語の習得を阻害する。

 本来長文問題は、全体の主旨がわかる、あるいは段落毎の主旨がわかることを判定する問題が主となるべきだが・・・それが長文における実用的な力を測ることになるはず・・・、そうしたことがわかっても、結局は、例外的に難しい部分の解釈が出来たり、使う頻度の低い難解な語句を覚えたり、不必要に複雑に仕立て上げた設問に対処する技を身につけたりしなければ、得点に結びつかないというなら、勉強の主眼は、文章の主旨をつかむことよりも、そうした些末なことの対策の方に置かれてしまう。

 そして実用という観点でさらに考えてみると、日常や仕事で英語を使う場合に必要とされるのは、例外的に難しい知識を知っていることではない。そうしたことを知ったとて、実際に使うことは稀だし、そうした知識は得てして、テストという特定の場面で、頭から必死で絞り出そうとすればようやく出てくるのが関の山で、実際に必要な時に、頭からさっと出てくるわけではない。むしろ必要なのは、普通のレベルのことが、安定的、継続的に使えるようになっていることだ。普通のレベルと言っても、単に知識として知っていればよいなら簡単かもしれないが、いつでも自在に使いこなせる状態になるには、それなりの訓練が要る。でも入試は、そういうことを問わないから、学生は勉強の多くの時間を、例外的に難しい知識の習得に費やすことになる。こうして実用英語の習得が阻害される。

 このように、入試が例外的に難しいことを問う背景には、英語という教科の位置づけが関係していたと思う。私が学生だった1980年代、そして90年代の大部分は、英語という教科の位置づけは、あくまでも知的訓練の題材で、実用面はほとんど問題にされなかった。英語力そのものを高めるというよりも、英語を利用して知性を鍛える、ということだった。識者の方たちも、実用英語など、必要な時に本気になって練習すれば簡単に身につくので、学校で行なう英語は知的訓練でよい、と言っていた。根本的にこんな考えだったので、入試が実用面などは考えず、難しいことばかりを問うのも、無理からぬことだった。

 そうした思想は、強弱の差はあれど、2000年頃までは続き、そして過渡期を経て、2007年頃に変化の兆しが表れ、徐々に、文章の大事な点が読み取れれば、かなりの得点ができる、従来とは違うタイプの入試が増えてきて、今に至っていると思う。

 ちなみにこうした変化をはっきり意識したのは、最近のセンター試験の変化がきっかけだった。センター試験は、2003年に急に易しくなり、その後も年を追う毎に徐々に易しくなっていると思う(逆に分量は増えているが)。当初は、レベルと分量の変化だけを意識していたのだが、その後それだけではない何かが変わっていくのを感じた(初めは、上手く言葉にできなかったが)。それが上で述べた、例外的に難しいことを問うことがなくなった、ということだ。

 センター試験でも、やはり長文の中に、一部特に解釈の難しい箇所があって、全体の主旨がわかっていても、その箇所が正確にわからなければ解けない問題があった(他の入試に比べて、圧倒的にその割合は少なかったが)。でも2007年頃から、そうした問題は徐々に減り、2012年にはついにそうした問題は姿を消し、ほぼ全てが、文章全体の主旨や段落の主旨がわかれば解ける問題となったのだ(当時のブログにも書いている)。

 最近TOEFLの問題を見たことも、そうしたテストの質の違いを意識するきっかけとなった(実際に受験したわけではないが)。TOEFLの問題(ここで話題にするのはReadingのみ)は、噂通り難しかった。では何が難しいのかと問われると、これがなかなか言いづらい。語彙レベルは高いが、極端に難しいものがゴロゴロ出ているわけではないし、文法的に難しい箇所は皆無と言ってよく、ごく普通の分詞構文や関係詞が使われているくらいだ。そして一番気になったのが、上で述べてきたような、特にここが難しいという特定の箇所がなく、全体的に難しいということだ。

 では改めて何が難しいのかと言うと、英文の内容が高度で、情報量も多いので、とにかく実力がないと、頭の回転が追いつかず、時間内に情報処理がしきれない、ということだろうか。このように、特に難しい箇所がなく、全体的に難しいというのは、新鮮な感覚だったが、問題としては高度でも、特に例外的に難しいことを問うわけではなく、全体的に英文の意味をきちんと理解できさえすれば、つまり実力さえあれば得点できるという、こうしたテストを、日本の入試もまねるべきではないかと思った。

 上述のように数年前から、そうした入試が増えてきている。でも、まだ十分な変化が起こったとは言えないし、相変わらず旧態依然の出題をしている大学も少なくない。 6年後には、「読む」だけではなく4技能を全て測定するという、大きな変化が起きるようだが、その前の、入試が「読む」ことしか問わない段階であっても、王道を行く勉強をしていればきちんと報われるような入試が、もっともっと増えてほしいものだ。