5年ぶりに政治の話・・・安保法案の件で思ったこと
このプログは、2010年の10月に始めたので、今月で丸5年が経ったことになる。細々とだが(本当に細々)、よく5年も続いたものだと、我ながら感心する。
ちなみに第1回目の記事は、家庭教師のブログなのに、なぜか「貧者の兵器とロボット兵器」という、ある意味政治の話題だった。それから5年が経った今月、奇しくも安保法案の可決という、大きな政治的な動きがあったので、今回はそのことを書いてみたいと思う。
ただ、安保法案に関連した一連の動きで、私が関心を持ったのは、法案に対する賛否とか、可決したことそのものよりも(一応私は賛成派だが)、反対運動をきっかけに生じた、庶民は法案に反対しなければならない、という空気感だ。
その顕著な例が、ある有名人が、反対派の運動にちょっと異を唱えただけで、それどころか、賛成派の意見も聞きたいと言っただけで、SNSが炎上してしまったということだ。
この過剰な反応は、当時から気になっていたが、政治家や官僚はともかく、一般国民は、自分たちに賛成してくれて当然だ、という思いがあったのだろうか。あるいは国会に法案を通されてしまいそうな状況の中、せめて庶民は自分たちの味方をしてほしい、という思いが強かったのだろうか。
信念を持ってやっている行動に、異を唱えられるのは腹が立つというのは分かるのだが、それにしても、庶民は自分たちに賛成して当然とまでなるのは、行き過ぎだ。世論調査では、確かに反対派の方が多かったようだが、賛成派も一定数はいたわけだし。
この現象で、私はあることが思い浮かんだ。それは、昔からある日本特有の「お上意識」だ。お上意識とは、上の人(例えば政治家や官僚)が何事も上手くやってくれるんだから、庶民としてはお任せして、それに従っていればいいんだよ、という感覚だ。
とすれば、今回の件とはむしろ真逆ではないか、ということになるが、このお上意識には変形版がある(と私は勝手に思っている)。つまり、お上には従う(従わざるを得ない)けど、文句の一つくらい言わせてくれ、というものだ。
お上は上手くやると言っても、場合によってはそうでない時もあるし、人によっては納得いかないということもある。そんな時でも、昔の(今もかな?)日本は得てして、お上の言う通りになるのだが、ただ言う通りでは、庶民の立つ瀬がない。だから文句くらいは言う権利があるのだ。ただし残念ながら、文句によって事態が変わることはない。なのでその分、どんなに厳しいことでも言えるし、また周りの人も、その文句に異を唱えてはいけないのだ。
今回の安保法案への反対運動をした人たちが、実際にこうした意識で動いていたとは全く思わないけども、異を唱えられることへの過剰な反応が、事態は変わらないのだから、文句くらいは言わせてくれよ、といった上述のお上意識の変形版を、私に連想させた。それゆえ、どこか勢いの弱さを感じさせた。
反対派はそうであって欲しかったのかもしれないが、安保法案は必ずしも、お上対庶民で、意見が分かれた問題ではない。上でも言ったように、一般国民にも賛成派は一定数いたのだから。なので本来なら、庶民で賛成派はけしからんと、切り捨てるのではなく、またお上だけと対抗するのでもなく、賛成派の庶民とも、対等な立場で意見をぶつけ合わせていくべきだったのではないかと思う。
ちなみに最近よく思うのは、日本人は、この対等な立場で意見をぶつけ合わせていくのが苦手だな、ということだ。安保法案の件だって、賛成・反対に分かれるのは当然で、しかも本来は、中立な状態でどちらかが選べるはずだ。
でも日本人は、中立な状態のまま進むことはなく、どこかで主流、非主流を作り(庶民自らが)、ある種、意見がコントロールされてしまう。ちなみに庶民においては大体、主流は立場の弱い側で、非主流は権力を持った側だ。意見の妥当性で分かれることはあまりない。
例えば安保法案の件で言えば、庶民においては、国会の多数派に押し切られてしまうであろう、立場の弱い反対派が主流となり、その逆の賛成派が非主流となる。
日本で、この主流、非主流の構図が出来ると、意見の妥当性とは関係なく、主流側の意見を選んだ人は、批判されなくて済む、という安全が得られ、非主流側の意見を選んだ人は、安全策が用意されているのに、あえて選ばなかったのだから、批判されて当然という位置づけになる。
こうしたことから、庶民が意見表明をする際は、この雰囲気を察知して、主流の方を選んでおこう、となってくることが多い気がする。実際、今回の安保法案の件では、芸能人も意見表明をしたということが話題になったが、ほんの一部の例外を除いて、皆判で押したように、反対の意見ばかりだった。もちろん、心から反対しているのだな、という人もいたが、多くは、やはり批判されなくて済むという安全策で、反対と言っているだけなのではと思えた(勝手な推測だが)。
テレビニュースの伝え方も歯切れが悪かった。国会前のデモの様子を映して、こうした声は議員の皆さんには届いているのでしょうか、みたいな伝え方が多かった気がするが、これも庶民の主流を意識した結果ではないかと思う。
その伝え方は、正面から議員を批判しているわけではないから、報道の中立は一応守られていると言えるのかもしれない。でも例えば、起こり得る危機を挙げて、反対派の人たちはこうしたことを考えているのでしょうか、といった報道は一度もなかった気がするから、結局は、反対派よりの報道が多かったとも言える。言いかえれば、マスコミも、庶民の主流を意識した報道をしたことになる。
日本は一応、民主主義国家だ。言論の自由も保証されている。でも未だにその行使の仕方が未熟だ。非主流を作って叩くことに躍起になるのではなく、対等な立場で意見をぶつけ合わせるのが普通になる日が、早く来てほしいものだ。
何事もバランスが大事・・・清潔さもほどほどに
少し前にあるテレビ番組で、ダニアレルギーの最新治療を取り上げていた。それは、ダニから抽出した成分を含むエキス、言うなればダニエキスを体内に取り入れ、それによって、アレルギー物質に対して、徐々に体を慣らしていくというものだ。まさにダニはダニで制す、なのだ。
これが最新治療なのかと、最初はちょっとズッコケたが、ああ、でもやっぱりそういうものだよなと、大いに納得がいった。やはり自然の摂理として、汚いものや嫌なもの(といっても人間の勝手な基準によるものだが)でも、排除すれば済むというものではなく、ある程度付き合わざるを得ないのだなと、改めて思った。
ダニアレルギーの原因は、言うまでもなくダニだ(もう少し正確に言うと、ダニの死骸や糞のようだが)。であれば、ダニアレルギーを防ぐには、ダニを排除すればよいと考えるのは、ある意味理に適っている。
でも現実には、ダニを完全に排除するのは無理なはずだし、そもそも、ダニは身近に普通に存在するもので、それを完全に排除しようとするのは、自然の摂理に反する気がする。また人間が、そうしたものを排除しなければ、生きられない存在となるのも、やはり自然の摂理に反する気がする。
ダニによって起こる問題に対処するために、ダニを避けたり、排除したりしようとしたものの、上手くいかず、結局ダニと適度に付き合うことが、一番よい解決策だった、というのは何とも皮肉な話だ。わざわざダニからエキスを作って注射するくらいなら、初めからダニに接して、免疫を作っておけばよかったのだ。
ちなみに、ダニの問題とは同列に扱えないかもしれないが、スギ花粉症においても、注射などで、花粉の成分を含んだエキスを体内に入れる、という治療法が有効なようだし、食物アレルギーでも、原因となる食物を少しずつ摂取していく、という治療法が有効なようだ。少なくともこれらも、排除だけでは対応に限界があり、適度に付き合う方がむしろ効果的だ、という例だろう。
前から思っているのだが、とかく日本人は、衛生面に関して神経質すぎる。しかも、真面目さ、ストイックさも手伝って、汚いもの(あくまでも人間基準)を徹底的に排除しようとする。その結果、そうしたものに対する免疫(抵抗力)が弱くなって、それを補う薬などで対抗しようとする。日本人は真面目だから、この点でも頑張って、よい薬を作ったりするが、元々人間側に抵抗力がきちんとあれば、本来そのことは、やる必要のなかったことだ。しかもその薬が、ダニから作ったダニエキスだったりする。
せっかくの日本人の真面目さを、そうした本来やる必要のなかったことに向けてしまうのは、もったいない。もっと大局観に立って行動してほしいものだ。ダニエキスの件で、せっかく自然界から、もはや排除だけでは、問題は解決できないことを教わったのだから、共存の方向にかじを切り、多少問題となるものがあっても、別に排除せずに生きていけるよう、人間側が変わるべきだ。
もちろん、既にアレルギーの方は、そんな悠長なことは言っておれず、とにかく今の症状をおさえる対応が必要なのも、理解しているつもりだ。でも根本的な方向転換をしないと、人間側の抵抗力が弱まって、新たな薬などで対応し、その結果また抵抗力が弱まってと・・・どんどん人間が弱くなっていく、この悪循環が止められないと思う。
ダニエキスの件をきっかけに、真面目な日本人が、近視眼的に事を進めるのではなく、大局観に立った、自然の摂理に反しない、バランスのとれた考え方をしてくれることを望みたい。人間だって自然物なのだから、自然な状態からあまりにもかけ離れた環境で生きようとするのは間違いなのだ。
長文が読めないのに長文をやる・・・考えてみればおかしな勉強
「英語の長文が苦手なのですが、どうしたらよいでしょう?」という相談に対して、「長文をたくさん読んで長文に慣れよう」という指示がされることが多い。これは、ある意味正しいかもしれないが、そうした相談をする人の一般的な思いを考えると、必ずしも正しいとは言えなくなる。
そもそも長文が苦手だと、長文をたくさん読むことは出来にくい(逆にたくさん読めるくらいなら、苦手ではないことになる)。だから上の指示を守ってたくさん読むためには、精度を下げた大ざっぱな読み方をするか、現段階でも楽に読める易しい教材を選ぶ必要がある。
大ざっぱな読み方でも、難しい長文にチャレンジすることは必要な勉強だが、それだけでは、根本的な力の底上げにはならないし、一歩間違えると、どんな時でも雑に読む癖がついてしまう。一方、易しい英文ならたくさん読むことはしやすいが、難しい長文が読めるようにはならない。
恐らく、長文が苦手でどうしたらよいかと相談する人の多くは、今読めるより難しい長文が読めるようになりたい、という思いがあるはずだが、結局どちらのやり方をしても、その目的にはかなわないことになってしまう。
でも考えてみれば、これは当然のことだ。長文が読めるようになるために長文をやるというように、目的と手段が同じになってしまっているのだから。
本来これはおかしなことで、例えば、逆上がりが出来ない人に、たくさん逆上がりをして慣れればよい、という指導はしないはずだし、泳げない人に、とにかく泳げばよい、という指導はしないはずだ。
なのに勉強においては、意外とこの本来おかしなことが、まかり通ったりする。上述の英語長文の件の他にも、国語が苦手な人に、本をたくさん読みなさい、と指導するのもその例だ(そもそも国語が苦手だと本はたくさん読めないはずだが)。
最終目標に至るには、色々な過程があり、順を追ってその過程を進んでいくべきなのに、最終目標ばかりに目がいってしまい、最終的に出来るようになればよいことを、早くも練習の過程で取り入れてしまうという過ちが、勉強では意外と見られる気がする。
逆上がりが出来ない場合、まずは筋トレをするとか、足で蹴る練習をするとかをして、最終的に逆上がりが出来ることを目指すはずだが、英語の長文となると、長文を目指すならやはり長文をやるべきだ、となってしまいがちだ。
もちろんある時には、上述のように、たとえ読みの精度が下がっても、難しい長文に取り組んだり、易しい長文を多く読んだりして、長文に慣れるという作業は必要だ。でもそれだけでは、根本的なレベルアップにはならない。
一時は長文から離れて、単語・熟語をひたすら覚える、短い文をきちんと訳す、という作業を積んでから、長文に取り組んだ方が効果的なことが多い。特にかなり苦手なところから始めるのなら、なおさらだ。
今は大事な夏休みの時期だ。入試本番を意識した実戦面が気になるかもしれない。でも最終的に求められることが、今やるべきこととは限らない。目的と手段を混同せず、パランスのよい勉強をすることが必要だ。
400年に3回うるう年がない 英語長文は小ネタの宝庫 その2
先月話題にした小ネタの続きだが、取り上げるのは 2014年 慶応大(理工)第1問の長文だ。解こうと思っている受験生は、ネタバレになるのでご注意を。
その長文のテーマは、人は外向的でなければならない、とするアメリカの文化に対する異論だ。そこには、アメリカは個性を尊重すると言いながら、外向的な性格しか認めない風潮があること、アメリカでも、外向的なふりをしているだけで、実は内向的な人も結構いること(統計によれば国民の1/2から1/3)、外向的な性格のみを理想とするのは間違いで、偉大な思想や発明は、自分の内面と静かに向き合うことから生まれていることも意識すべきだということ、などが書かれていた。
この話は、面白いという類のものではないかもしれないが、何となく固定観念として持ってしまっていた、アメリカ人の国民性が覆され、本音の部分が垣間見えたというところで、興味深かった。
そもそもアメリカ人は、それこそ全員明るいのだろう、というくらいのイメージがあったが、よく考えてみれば、3億人もいるアメリカ人全員が明るいというのもおかしな話で、やはりそんなことはなかったのね、という何か腑に落ちた思いだ。
自由の国アメリカで、外向的でなければならないという心理的圧力がかかる、というのは意外だが、これに異を唱える意見が正々堂々と提示されるのも、やはり自由の国アメリカらしいなと、改めてアメリカのダイナミズムを感じる。
ちなみにこの長文は、Susan Cain(スーザン・ケイン)のQuietという本からの抜粋のようだが、この話は、TEDが主催する有名なプレゼンイベントで、The power of introverts(内向的な人のパワー)という題で、Cain自身が2012年に講演している。NHKのEテレでも放送されていたし、ネットでは今でも見られる。
それを見ると、入試長文の抜粋には載っていない核心部分が分かり、一層興味深い。現在世の中で私たちが直面している問題は、大きく複雑で、多くの人が協力しなければ解決できないことが多いが、だからと言って、常にグループ作業で皆でワイワイ事を進めるのもおかしい。まずは各人が一人静かにじっくり考えてアイデアを出し、それからそのアイデアを持ち寄って、ほどよく話し合うという方が、よい解決策が出せたりする。こうしたことができない、つまり内向的な人が力を発揮できない状況は、社会的にも損失だと、Cainは主張している。
講演でCainは、自身の子供時代のサマーキャンプの体験も語っていた。皆で活動的にやるという精神を植えつけるために、全員でリズムに乗って「にぎやかに行こう!」などと何度も唱えさせられ、ちょっと一人で本を読もうとしたら、世話役の人が心配そうな顔でやって来て、皆で楽しくやらなければダメじゃないか、と言われたそうだ。こうした話を聞くと、アメリカでは、内向的だと本当に気苦労が多いのだな、ということが実感として伝わる。
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さて全く話は変わるが、皆さんは、400年に3回、うるう年のはずなのにうるう年でない年があるのをご存知だろうか?
言うまでもなく、うるう年は4年に1回やってくる。地球は太陽の周りを、約365と1/4日で回っていて、4年で約1日分足りなくなるので、それを補うためだ。
しかしここでちょうど1日分を足すと、今度はほんの少し余剰分が生じ、それが400年で約3日分となるのだ。なので、この余った3日分を削るため、400年に3回、うるう年のはずの年をうるう年にせずに調整するのだ。
ではどの年をうるう年にしないかというと、それは、400で割り切れない00で終わる年だ。だから、400で割り切れない1700年、1800年、1900年はうるう年でなかった。でも2000年は割り切れるので、通常通りうるう年だったのだ。
私はこの話を何で知ったかと言うと、やはり英語の長文だ。それも20年以上も前の、1994年の桐朋高校の入試問題だ(こちらは大昔のものなので、ネタバレは気にせず・・・)。
ちなみに2000年は普通にうるう年だったが、上述のことから、考えようによっては400年に1回の珍しい年とも言えた。なのでその年に、ニュースなどで報道があるのかなと思っていたが、残念ながらなかったように思う。
それどころか私は、上記の事実を、その英語長文でしか見ていない。知り合いからも聞いた覚えはないし、学校でも習った記憶はないし(教えたという先生がいたのかもしれないが)、テレビなどでも見た覚えはない。つまり私は、1994年にその英語長文を見なければ、未だにその事実を知らなかったかもしれないのだ。やはり英語長文は、小ネタの宝庫なのだ。
なぜトーストはバターを塗った面が下に落ちるのか? 英語長文は小ネタの宝庫
つい先日ちょっとしたテレビ番組で、「バターを塗ったトーストをテーブルから落とすと、なぜいつもバターの面が下になって(よりによって床が汚れるように)落ちるのか?」という疑問を、ある意味科学的に検証していた。この現象は決して偶然ではなく、必然性があるという。ポイントは、一般的なテーブルの高さが約70cmだということにあるようだが、詳しくは以下の通りだ。
そもそも、トーストがテーブルから落ちる場合、テーブルの端からだんだんはみ出していく形で落ちるのが普通だ。そうするとトーストは、回転しながら落ちることになる。そして上述の約70cmの高さだと、ちょうど半回転(180度回転)したところで床に着くのだ。ちなみに、テーブルにトーストを置く場合、普通はバターのついた面を上にするため、それがちょうど半回転すると、バターの面が床に着くということになるのだ。
なかなか興味深い話だが、実はこの話は元々知っていた。では何で知ったかというと、それは昨年のある高2生に見せてもらった、模擬試験の長文問題だ。その長文は、ある学校の授業で先生が生徒にエッセイの課題を出す、という設定になっていて、その課題の内容が、身近に起こる不運なこと(マーフィーの法則と称したりする)は、単なる偶然なのか、合理的理由があるのかを、例を挙げて説明せよ、というものだった。そしてある生徒が書いたエッセイの内容が、上のトーストの話だったのだ。・・・ちなみに、このトーストの話は、2013年の一橋大学の長文でも取り上げられていた(ソッドの法則と、名称は変わっていたが)。
ある意味有名な話ではあるようだが、当時の私には新鮮で、印象深く、たわいない話ではあるのだが、感動さえ覚えた。と、このように、英語の入試長文や、模試の長文で、興味深い話、面白い小ネタに出くわすのは、楽しみの一つだ。社会の重大な問題や、最先端の科学ネタなども、もちろん興味をそそられるが、上のトーストの話のような、我々の生活に重大な影響は及ぼさず、カテゴリーもはっきりせず、他の教科でも、テレビニュースなどでも、取り上げにくいだろうなと思えるような小ネタが、一層好きだ。
さて他に、英語長文から得た感動的な小ネタをいくつか挙げると、まずは、「常に絶対的方位を使う民族」の話がある。これは、2012年 成蹊大 文学部 第5問の長文で、テーマは、言語が空間や時間の認識にどう影響しているか、ということなのだが、その例として、オーストラリア先住民 アボリジニの一部の人たちが使う言語が挙げられている。そしてその言語では、常に絶対的方位を使うというのだ。
絶対的方位とは、要するに東・西・南・北のことで、自分の位置や向きの影響を受けない。それと対照的なのが、前・後・左・右などの相対的方位で、自分の位置や向きによって言い方が変わる。我々は両方の方位を使い、大体において、大きな空間では絶対的方位、小さな空間では相対的方位、と使い分けている。前者の例は、「私の家は駅の南にある」、後者の例は、「カップはお皿の左にある」などだ。
でも上述のアボリジニの人たちは、どんな時でも絶対的方位を使うため、「カップはお皿の南東にある」とか、「メアリーの南に立っている少年は私の兄です」などとなるのだ。当然こうした言い方ができるためには、方角が正確に分からなければならないため、アボリジニの人たちは方角の感覚が鋭くなっているようで、実際、5歳くらいの子供でも、北の方角をさすように求めると、正確に指さすことができるらしい。
さらにこの話は、時間のことへと続いていく。
例えば我々日本人が、何枚かの写真を起こった順に並べるよう求められたら、どのように並べるだろうか。通例、左から右へと並べるのではないだろうか。これは、通例人は時間的配列を文字を書いていく方向に合わせるからだそうだ。だから、英語が母国語の人に同じ作業を求めると、やはり左から右に並べる。でも、右から左に書くヘブライ語を話す人だと、右から左に並べるそうだ。
では上述のアボリジニの人はどうするかと言うと、左から右でも、右から左でもなく、何と「東から西へ」並べるのだ! だから彼らに、南を向いて座ってもらって作業を頼むと、左から右に並べるし、東を向いて座ってもらうと、縦に自分の体に向かうように並べるのだ。
いかがだろうか? ちょっと驚きではないだろうか? 驚きの話、興味深い話は色々あるが、このように、普遍的と考えて疑わなかったレベルのことが覆される、思いもよらぬものの見方に出くわすと、大いに興味をそそられるし、素朴にワクワクする。
私がこの英文を知ったきっかけは、たまたまある生徒がこの成蹊大を受験するということで、私も予習のために解いてみた、ということなのだが、おかげで、こんな面白い英文に接することができて、生徒にも感謝だ。
ちなみに、他に小ネタをあと2つほど取り上げようと思っていたのだが、この調子だと長くなりすぎるので、残りはまた日を改めて取り上げることにする。
今の生徒は真面目だが・・・
私は、かれこれ30年ほど教える仕事をしている。これだけ教えていると、昔と比べ、やはり生徒の気質は変わってきたなあ、とつくづく感じる。変わった点は色々あるのだが、最近特に感じるのは、生徒が真面目になったということだ。
真面目なのは本来よいことなのだが、やはり何事もバランスが大切で、行き過ぎると、あるいは方向性を間違えると、問題が生じてくる。最近は特に、言われたことをこなす、決まりは守る、ということばかりを優先して、肝心の出来や成果、そして自分の感覚さえもが二の次になっている、という事例が増えてきた気がする。
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例えば、こんな例があった。
ある生徒は、毎週単語を100個ずつ覚え、それをテストをしているのだが、毎回微妙な出来だった。さらには前の週に覚えたはずの単語をチェックすると、既にかなりの部分忘れている。何よりも、毎回のテストがつらそうで(実際唸り声を上げながら(!?)行なうこともあった)、週100個というペースが、その生徒には合っていないのではないかと思われた。
そのことを生徒に指摘すると、ペースが遅くなるのが不安だ、そして何よりも、決めたことをやらないのはよくない気がする、とのことだった。でも、早いペースで進んでも、あまり覚えていないのなら、結局やり直すハメになって、効率が悪いのではないかと指摘すると、この点に考えを巡らせたことはないようで、そもそも私の指摘がピンと来ていないようだった。
そもそも週100個というペースは、学校がそのような進度だったので、とりあえずそれに合わせてみようか、ということで始めただけで、そのペースでなくてもよかったのだ。実際この生徒の場合、週あたりの個数をもっと減らしても、入試までには必要な単語が網羅できた。
だから本来なら、せっかくの個人指導なのだし、本来やるべき量・ペース、自分にとってしっくりくる量・ペース、目標のレベル、現実の自分の出来、などを総合的に考え合わせて、最も効果的だと思われるやり方で進むのが、重要なはずなのだ。でもこの生徒は、そうした実効性には考えが及ばず、とにかく決めたことをやる、ということにだけ力を注いでいたのだ。
ちなみに学校の場合は、自分だけペースを変えることは、もちろん出来ないが、それでも自分の感覚に基づいて、理解が怪しいところは後でやり直したり、全てを完璧にこなすのが難しいのなら、さしあたりの優先事項を選び出し、それを確実に定着させるようにするなど、自分なりの対策はとるべきだ。
また、こんな例もあった。
ある高3生が持っていた長文問題集が気になり、それは何かと尋ねると、昨年(高2時)学校の授業で使っていた教材だと言う。では、その教材で習ったことで何を覚えているか?と聞くと、何も覚えていないとの答。そもそもこの教材は昨年のもので、今は使っていないのだから、覚えているわけがないのでは、と言わんばかりに・・・ 答の内容も驚きだったが、何のためらいもなく即答したことも驚きだった。
つまりこの生徒は、何も覚えていないことを問題視していないのだ。それどころか、言われたことはきちんとやっていた、という自負がある。授業の前に分からない単語は調べたし、設問も解いたし、授業では板書もきちんとしたし、復習も一応したし、学校から指示されたことはきちんとこなした、ということなのだ。
せっかく勉強したのに、そんなに忘れているのでは、意味がないのではと指摘すると、生徒は、でも言われたことはきちんとやりましたよと、そここそが大事とばかりにアピールしてくる。それを聞いて再度私は、でも忘れていては意味がないのでは・・・と堂々巡りになっていく。
もちろん長文問題集の隅から隅まで覚えている必要はない。また、覚えているものが言葉で明確に言えなくても、本人のみぞ知る何か感覚的なものが身についているのかもしれない。でも本来長文問題をこなしたら、その後は何度も音読して、頭にしみ込ませることが、実力をつけるためには必要だ。そうした作業を繰り返していれば、その長文をきっかけに覚えた単語や文法、どういう内容の長文があったか、印象深かった一節、内容把握に苦しんだ箇所、和訳に苦闘した部分など、何かしら記憶しているはずなのだ。
そもそも学校では、この音読という重要な作業をするよう指示しなかったのかが気になるが、生徒によれば、言われたことはきちんとやったはずなので、その指示はなかったと思うとのことだ。ただこの学校の指導が全体を通して緻密なことを考えると、生徒を疑うようで悪いが、恐らく音読の指示はあったものと思われる。たまたまその指示だけ聞きそびれたか、その指示が曖昧なものだったのかもしれない。
いずれにしてもこの生徒は、言われたことはやったというだけで満足し、長文問題を1つこなす毎に、自分がどう成長したかということを考えることがなかったのだ。
さらには、こんな例も。
ある生徒の学校では、長期休みの期間に、特別講習を行なうと言う。ただ、どの講座を受講するかは自由に決めてよいし、そもそも受講してもしなくてもよい、とのことだった。
その生徒に、どの講座を取ることにしたのかと聞くと、それはそれはたくさんの講座を取っていて、しかも、今のレベルを考えたら難しすぎるのでは、という講座も多く含まれていた。
現状を考えると、これまでに学校で習ったことも、復習不足で定着したとは言えないので、そんなに講座を取ったら、復習の時間がなくなってしまうのでは、そして私の授業の予習・復習の時間もなくなってしまうのでは、と指摘した。すると、そんなことは考えたこともなかったようで(そここそ考えるべきなのに・・・)、最初はポカンとした様子だったが、よく考えてもらったところ、確かに復習時間は必要だということは納得したようで、講座数は適量に抑えることにした。そして講座のレベルも、現状に合ったものに絞った。
予習・復習の時間、つまり定着のための時間を無視して、とにかく講座をたくさん取れば、とにかく問題集をたくさんこなせば、出来るようになると思っているという、こうした過ちは、実は昔から見られるものだが、最近は、真面目にコツコツやるタイプでも、こうした過ちを犯す例が増えてきた気がする。
いずれにしてもこの生徒は、自分の状況に関心を持たず、自分の状況とは無関係に事を進めていたことが問題だった。
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上の3例の生徒とも、皆真面目に勉強している。だからこそ、真面目さの方向違いによって、勉強の効果が減るのは、何としても食い止めたいところだ。
ちなみによい勉強法と言われるものも、ある生徒には合っていないかもしれないし、合ってはいても、それをするタイミングは今ではない、という場合もある。そうしたことが判断できるためには、当然自分の状況がきちんと把握できていなければならない。
どうせ真面目にやるなら、そこを真面目にやってほしい。
私のダイエット法・・・と英語の指導法
もう10年ほど前になるが、私は長年吸っていたたばこを止めた。するとご多分に漏れず、食欲が増し、知らぬ間にたくさん食べるようになっていたのか、体重がじわじわと増えていった。
私は太る体質ではなかった(と自分では思っていた)ので、体重の増加には気づいていたものの、たばこを止めたことによる一時的なもので、いずれは元に戻るだろうと思い、特に何をするわけでもなく放っておいた。
でも体重の増加は止まらず、お腹の脂肪のせいで、前にかがみにくくなったり(足の爪を切る時に感じた)、ズボンのウエストのサイズも、1つ上がり、2つ上がり、3つ上がり、となっていき、ダイエットなど考えたこともなかった私も、さすがにやらないとダメかなと思うようになった。
そして、たばこを止めて(=太りだして)2年後、ついにダイエットを実行することにした。その時には、体重が以前に比べて10kg増えていた(65kg→75kg)のだが、その分を減らして元に戻すことが目標だ。
さて、ダイエットの方法なのだが、それを考える前に、やると決めたら確実に成果を出したかったし、また私は根本的なことから考えないと気が済まないたちなので、そもそも痩せるとはどういうことか、どうなれば痩せるのか、ということを考えた。
すると痩せるとは、消費カロリーが摂取カロリーを上回ることで起こること、そして具体的な数値で言うと、消費カロリーが摂取カロリーを7,000kcal上回ると、体重が1kg減るということが分かった。
とにかく根本は、消費カロリー > 摂取カロリー、となればよく、そのためには、運動などをして消費カロリーを増やすか、食事を減らして摂取カロリーを減らせばよいということになる。
これを踏まえて、改めて巷で言われているダイエット法を検証してみたが、まずは、いくら食べてもよいという、最も疑わしい方法は、どう考えても上の不等式を満たすはずがないので、即却下。次に「こんにゃくダイエット」のような一品だけを食べるという方法も、その必然性がないので(摂取カロリーを減らすことと、品目数を減らすことは関係がないし、ましてや一品にする必要は全くない)、やはり却下。「炭水化物抜きダイエット」のような特定の栄養素を抜く方法も、同様に必然性が感じられず(それにいかにも体に悪そう)、これも却下。
運動をして、消費カロリーを増やす手もある訳で、そちらの方も検証してみた。ところが、この方法が有効でないことは、すぐに思い知らされた。調べるとすぐに分かるのだが、運動というのは、意外とカロリーを消費しない。例えば、身近なジョギングだが、それによって7,000kalを消費するには(つまり1kg痩せるには)、何と約100km(フルマラソン2回半に相当)の距離を走らなければならない。
つまり食べる量を減らさずに痩せるには、これだけの運動が必要になる。私が目標としている10kg分を痩せるには、約1,000km(フルマラソン25回分、東京~大阪1往復分の距離に相当)も走らなければならず、とても現実的とは思えない。
ということでやはり、食事を減らすこと(栄養バランスは考えながら)が、最適な方法だろうということに落ち着いた。元々そうなのだろうと思っていたし、ダイエットを決意した時点で、食事を減らす覚悟も出来ていたので、そこは問題がなかった。逆に食事を減らしすぎると、体が飢餓状態と勘違いして、より脂肪を溜めこもうとして、やせにくい体になってしまうと聞いていたので、食事をどこまで減らしてよいものかが、気になっていた。
そうした疑問に答えてくれ、そしてまさに私のダイエットの道標となってくれたのが、ちょうどタイムリーに出版された「いつまでもデブと思うなよ: 岡田斗司夫著」という本だった。この本で提唱されている「レコーディング・ダイエット」により、私は痩せることができたのだが、その方法は、食べたものとそのカロリー数を全て記録(recording:レコーディング)するというものだ。
ちなみに、すぐに挫折してしまわないよう、まずは記録さえとればいくら食べてもよい、という段階から始めることになっている。いずれは食べる量も減らさなければならないのだが、それも無理やりという形ではなく、記録をとっていくうちに、自然と食習慣が改善されることを目指す(毎回、ラーメン大盛と記録されているのを見て、たまには普通盛にするか、と考えるなど)。
そして最終的には、1日あたり一定のカロリー数に抑えるのだが、その一定数というのが、基礎代謝量(特別何もしなくても、呼吸など生命維持のために消費されるカロリー)で、これを下回ってしまうと、上で述べたように体が飢餓状態と勘違いし、痩せにくくなってしまう。基礎代謝量は、性別や体のサイズによって変わるが、私の場合は約1,500kcalだった。
一方で、通常の生活で1日に必要とされるカロリー(=その量を摂取していれば、太りもせず痩せもせずというカロリー)は、これも性別や体のサイズ、普段どれくらい体を動かすかによって変わるが、私の場合は約2,200kcalだった。
つまり私は1日約1,500kcalの食事をしていれば、2,200kcal ― 1,500kcal = 700kcal分摂取カロリーが下回ることになり、1日あたり100g、10日で1kg、そして3ケ月と10日ほどで、目標の10kgが痩せられることになる。
実際にそのダイエットを実行し、どうなったか? 結果から言ってしまえば、見事なほど計算通りに痩せられた。やはり、根本的に正しいことをきちんと実行すれば、確実に結果は出るのだなと、しみじみ思った。
もちろん、それなりの苦労もあった。一口に1,500kcalに抑えると言っても、ちょっと調べてみるだけで、結構難しいことが分かる。レストランのごく普通のセットメニューや、コンビニの弁当なども、800kcalくらいあったりするし、焼肉やハンバーグ系となると、1,000kcalを超えたりする。パンにハムエッグにサラダという、質素だと思っていた普段の朝食も、計算してみると実は600kcalくらいあった。
だから初めは、1,500kcalに抑えるなんて本当に可能なのかと思ったが、外食でも、例えば野菜中心でカロリー控えめのものを選んだり、肉系でもミニサイズのものにすれば、意外と何とかなることが分かった。普段の朝食にしても、油っぽいソーセージを、あっさりしたハムに変えるだけで、結構カロリーが下がることが分かった。また毎食ごとに節制しなくても、夜はがっつり食べる代わりに、その分朝と昼を一層抑える、などということも出来た。
とは言え最初はやはり、1回分の食事が物足りなく感じ、えっ、これで終わりなの、と悲しく思ったものだが、食後に悲嘆にくれている(!?)うちに時間が経つので、そこでそれなりの満腹感も生じ、これでもやっていけるのかな、と何とか自分を納得させた。でも意外と数日で、こうした食事にも慣れ、上述のように工夫してカロリーを抑える作業も、パズル解きのようで楽しく、総じて私のダイエットは、そうつらいものではなかった。
そんなこんなで私は、何とかダイエットが続けられた訳だが、その理由の第一は、やはりどうしても痩せたかったという意志だ。ただそれに加えて、納得感を持って実行したことも大きい。準備段階で、痩せるとはどういうことかを根本から考え、それに即した理にかなった方法を探っているうちに、これだ!という方法(つまりレコーディング・ダイエット)に出会い、あとは実行するのみと、迷いがなかった。
ちなみに、レコーディング・ダイエットを提唱していた「いつまでもデブと思うなよ」という本には、大いに助けられた。太るメカニズム・痩せるメカニズムといった理論的なことや、どのくらい食事を減らすと最も効率よく痩せられるのか、という数値的なことは、非常に納得がいったし、実際の筆者の体験談も、精神的な助けになった。
さらには、社会学や文化論の視点による考察もあり、たかがダイエットでも、頭のよい人が書くと、こんなにも内容の濃い、読みごたえのある本になるのだなと感心した。これからダイエットをしようという、理論派の人にお薦めなのはもちろん、ダイエットとは無縁の人にとっても、社会学の風変わりな教材、あるいは文章力を磨く教材として面白いかもしれない。
さて、ダイエットが上手くいっても、リバウンドがよく問題になるが、それは全くなかった。私の場合、カロリーを控えた食事を3ケ月以上続けた訳だが、それだけ続けると、もはや完全に習慣化していて、目標達成となっても、別にたくさん食べたいとは思わなかった。もう痩せなくてよいのなら、さすがに基礎代謝分の1,500kcalに抑えるのは少し(それでも少し)厳しいけど、かと言って、食べたいだけ食べても、本来必要とされる2,200kcalは、基本的に上回らなくなった。
実はここも、レコーディング・ダイエットの大きなポイントだ。特別無理をしたり、極端なことをする訳ではなく、理にかなったことを無理のない範囲で進めていくので、そうしているうちに、食べたい量自体が減ってくるのだ。食べたい量が減る、つまり食べたい量が太らない量なのだから、食べたいだけ食べても太らないということになる。だから、リバウンドも起こりようがない。素晴らしいことだ。この点は、筆者が本の中で述べていたことだが、私も追体験ができた。
ダイエットを終えてから今に至るまで、もう何年も時間が経っている。その間私は、基本的に食べたいだけ食べているが、今も体重は変わらない。ありがたいことだ。
以上が私のダイエット体験記なのだが(予定よりはるかに長くなってしまった・・・)、そこでの考え方や行動は、私の英語の指導法にも通じているものがあると思う。また私がダイエットで味わった体験の本質的な部分は、英語を学ぶ生徒にも追体験させたいと思っている。ご参考までに。