Miscellaneous

ある家庭教師の独り言

やはりセンター試験について語ろう

 これまで年初めの1月は、いつもセンター試験に関する話題を書いてきたが、今年は、イスラム国による日本人人質殺害という、非常にショッキングな事件があったので、そのことを書いた。

 1月にセンター試験のことを書く、ということを決まりにしているわけではないが、ブログを始めてこれまで4年間、いつも1月はセンター試験のことを触れてきたので、今年も、1ケ月遅れとなったが、やはり触れてみたいと思う。

 と言いながら実は、今年のセンター試験に関しては、特筆すべきことはないのだ・・・ 例年通り、些末な知識の有無ではなく、多くの情報から大事な点がつかめているかを中心に問う、基礎的な英語の実力が測れる良問だった。

 確かに、総語数がやや増えたり、新形式の問題が少し加わったりという変化はあるが、総語数は毎年増えているし、新形式の問題は昨年も出されていて、特に今年ならではの変化ではない。

 さらには、例年個人的に感じていた、形式面には表れない特徴的なものも、今年は感じられなかった。例えば一昨年の2013年は、英語そのものの解釈というよりも、素早い情報処理力がないと読みづらいが、読めさえすれば設問は解きやすいという感じだった。一方で昨年の2014年は、英文自体は読みやすくなったが、設問処理により注意を要するものが多かったように思う。

 つまり今年のセンター試験は、極めて普通なのだ。何ら特別な技は必要ない。運動に例えると(ちょっと唐突?)、サッカーの技術は求められず、とにかく走れさえすれば、対処できるのだ。でも逆に、そこが落とし穴でもある。華麗なドリブルやシュートは、やはり練習をしなければ出来ないと思えるので、技術習得に向けてきちんと練習をするものだ。またドリブルやシュートは面白いので、よりそうした練習に向かわせる。ところが走ることは、元々何となく出来てしまうので、また面白味に欠けることも手伝って、特別何か対策をしようとは思わないかもしれない。

 確かに、自分の好きな距離を好きなペースで走ってよいというなら、誰もが走れるということになるだろう。ただセンター試験では、結構な長距離を、結構な短時間で走ることが求められる。センター試験の得点が振るわない人は、そうしたことに向けた練習がなされていない。走ることはしていても、基本的なフォームがなっていなかったり、走る量が不足していたり、あまりにもスローペースだったり、ひどい場合には全く走らなかったり、また、本番ではほとんど求められないのに、ドリブルやシュートの練習ばかりをしていたり、といった感じだ。

 センター試験長距離走だとしたら、難関私大の入試は、サッカーの試合となる。なので、ドリブルやシュートの技術も求められ、それに向けた練習は必要だ。だけど当然ながら、そうした技術も、しっかり走ることができなければ、生かしようがないということを、忘れてはいけない。結局難関大対策でも、センター試験に向けた対策と同様、まずはしっかりと走り込むことが必要なのだ。

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 センター試験に関する話で、もう1つ。

 いつの頃からか、センター同日体験受験といったイベントが定着している。予備校や、さらには学校が、センター試験の本番と同じ日に、同じ問題を、高2生、場合によっては高1生に受験させるというものだ。

 特に高2生にとっては、実際の受験のちょうど1年前、世の中もまさに受験ムードの時に、本番と同じ問題を解くのは、モチベーション・アップにもつながって、よいことだろう。また、ちょうど1年後に受ける問題の特徴、および自分の現状を知ることができ、その後の勉強の方針を決めるのにも役立つだろう。ただし有意義なのは、ある程度は出来るという場合だ。

 センター試験は、入試全体から見ればやはり易しいので、英語がまずまず出来れば、高2生でも高得点を取ることは可能だ。実際8割取れたなど、景気のいい話もよく耳にする。一方で、全く出来なかった、量も多くて何が何だかわからなかった、といった声も聞かれる。

 こうした生徒にとっては、残念ながら、このイベントに意義があるかは疑問だ。そもそも入試の過去問に有意義に取り組むには、得点はともかく、分からないところや自らの課題が、ある程度把握できるくらいのレベルになっている必要がある。そうなっていない状態で過去問に取り組むのは、やはりまだ早いと思う。それどころか、貴重な過去問を無駄にしてしまったとも言える。

 入試の過去問は(特に最新のものは)、実戦力を試すのに、これ以上ない教材だ。どうせなら、初見で新鮮味のある状態で取り組みたい。全く歯が立たない状態の時に、過去問に触れても実戦力を試す練習にはならない上に、なまじ触れてしまったために、その後力がついてから過去問を解いた時に、そう言えばこういう英文があったなどと、以前の記憶がよみがえり、全くの初見の感覚で解くことができず、本番のシミュレーションにならなくなってしまう。・・・すっからかんに忘れているから大丈夫だ(!?)という生徒もいるが・・・

 勉強にはインプットの勉強と、アウトプットの勉強とあるが、過去問を解くのはアウトプットの勉強だ。でもそれは、インプットされたものを上手く運用するための勉強で、インプットが不足している状態で行なっても意味がない。インプットが不足しているのなら、何よりもインプットを増やす勉強をすべきだ。

 ちなみにセンター同日体験受験は、5教科も受けるとなると、かなりの時間が取られる。生徒によっては、その時間、単語を覚えること(つまりインプットの勉強)にでも使った方が、はるかによかったのではないか、と思える場合もある。

 出来はともかく、このイベントをきっかけにやる気が出たのなら、それはそれで有意義だったと言えるだろう。また予備校や学校で半ば強制されるので、受験しないわけにはいかないという実状もあるかもしれない。でも、ただイベント的な盛り上がりで終わらせるのではなく、自分なりの意義をきちんと考え、せっかくのイベントを無駄に終わらせないようにしたいものだ。

日本人は冷たい

 イスラム国により、二人の日本人が人質にとられ、うち一人が殺害されてしまったようだ。非常に残念だし、卑劣な犯行には憤りを覚える。そしていよいよ日本も、世界的なテロが他人事では済まなくなったなという感じがしてくる。

 一方でこの事件を機にまた、日本の不思議な というよりどこか怖い国民性を垣間見た気がする。特に殺害された湯川さんの父親のテレビ報道を見て、そう思った。父親は、残念な気持ちでいっぱいだということと、国民、政府、そして息子を心配して現地に入ったがゆえに拘束されてしまったのではないか、という後藤さんに対する謝罪を述べていたのだが、感情をむき出しにするわけでもなく、激しい言葉を使うわけでもなく、実に落ち着いたトーンだった。事の重大さを忘れてしまうほどに。

 でもよく考えると、この落ち着きはおかしい。子供が殺されているわけだから、親としてはとても平常心ではいられないはずで、感情をむき出しにして、怒りの言葉の一つもぶつけたくなるのが自然ではないか。ではなぜそうしなかったのだろうか。それは恐らく、日本の無慈悲な自己責任論を意識した(というより意識せざるを得なかった)からではないかと思える。もう一人の人質の後藤さんの母親も、自分は母親だからこの状況には耐えられないということを、その言葉の内容とはあまりにもかけ離れた、落ち着いたトーンで言っていたが、やはり自己責任論を意識せざるを得なかったのだろう。

 何か不祥事や事件が起こったら、直接に迷惑をかけていなくても、国民全員に謝罪しなければならない(しかも被害者であっても!)という、日本独特の空気と相まって、無慈悲な自己責任論も、時代が進むにつれてますますエスカレートしている気がする。東日本大震災の時も、原発事故で避難を余儀なくされた人に対して、自ら原発を誘致したのだから自業自得だ、などという意見が出て、もはやここまで言うようになったのかと衝撃を受けたが、この自己責任論はついに、息子が殺されるという、親にとっては気も狂わんばかりの事態でも、容赦なくのしかかるまでになってしまった。

 それにしても、なぜ日本人は、声高に無慈悲な自己責任論を叫ぶのだろうか。今回の事件にしても、自己責任論を主張するほとんどの人は、直接的に迷惑をかけられたわけではないはずだし、救出といった実際の作業を求められたわけでもないはずだし、救出に向けた交渉等で、税金が使われているかもしれないにしても、個人的に税金を追加徴収されたわけでもないはずだ。だったら、何もあえて突き放すことはせずに、助けようという気持ちくらい持ってもよさそうなものなのだが・・・、何がそんなに気に入らないのだろう。

 もっとも、こうした自己責任論は、主にネット上で見られる、あくまでも一部の人の意見ということかもしれない。実際私の知り合いを含め、身近なところからはそうした声は聞こえてこない。でも世間で、積極的に自己責任論を打ち消すような声も、あまり聞こえてこず、この自己責任論は、自らのせいでなくても何か面倒なことが起こったら見放されるという、今の日本全体に流れる空気と一致している気がする。

 日本は昔から画一的な社会だと言われてきたが、近年は個性や自由が奨励されている。でもなぜか日本人は、個性や自由を発揮するために使えるエネルギーを、画一性からはみ出した者の監視と非難に費やしてきたように思える。そんなことに汲々としているうちに、命がかかっている状況でも、日本は、平然と自己責任論で片づけてしまうメンタリティになってしまった。豊かな国のはずなのに・・・残念だ。

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※ 追記
 この記事を投稿した翌日(2/1)、もう一人の人質の後藤さんも殺害された模様だ。さらなる蛮行に憤るとともに、後藤さん本人の無念さや、親族の方の悲しみを思うと、本当に気の毒だ。

 ただ同じく残念に思ったのが、親族の方による、国民に対する謝罪だ。身内が殺されるという、悲しみのどん底にあっても、日本では、とにかく世間を騒がせたということで、国民に謝罪をしなければならないのだ。改めてこの不文律は、本当に容赦なくのしかかるのだなと思い、悲しくなった。

 そしてその後、後藤さんには、外務省が現地への渡航自粛を要請していたとの報道があった。これによって、自己責任の論調がより強まった感もあるが、それでも私は、簡単に自己責任では片づけられないと思う。ただそれよりも、渡航自粛要請を聞き入れなかったのだから、死んでもやむなしと見捨てたり、テロリストよりも悪者なのか、と思いたくなるような勢いで非難する日本の冷たさに、ショックを受けてしまう。

 被害者(加害者ではない)の親族を、マスコミの前に引きずり出し、謝罪をさせる(事実上、日本国民がそうさせている)だけでも、ひどいと思うのに、さらに自己責任論のバッシングを浴びせるのは、あまりにも非情ではないか。一番悪いのはテロリストなのに・・・

 日本も世界的なテロと対峙しなければならなくなったようだが、そのために第一に日本がやるべきことは、同胞を見捨てない精神性を持つことだ。

「ダメよ~ダメダメ」の昨今

 「ダメよ~ダメダメ」とは、2014年の新語・流行語大賞となったフレーズだ。実は私自身は、この言葉にあまり馴染みがなかったので、大賞の候補にノミネートされた段階でも、まさかこの言葉が大賞をとるとは思っていなかった。

 でも、ある審査員のコメントを聞いて、合点がいった。何でもこの言葉は、記者会見等、様々な場面での煮え切らない押し問答を言い表す、今年を象徴する言葉だとのこと。(受賞理由に、そんな深い意味があったのかと、少し驚きもしたが。)

 確かに今年の記者会見を振り返れば、佐村河内氏のゴーストライター会見、小保方氏のスタップ細胞会見、野々村県議の号泣会見など、一体何なんだという、釈然としないものが多かった。釈然としないから、こちら側もはっきり「ダメだ」と責められない。だから「ダメよ~ダメダメ」と、責める方も、釈然としない責め方になってしまうということか・・・

 しかし、この釈然としない記者会見は、今年に始まったことではない。振り返れば私の人生で、初めて釈然としないと思った会見は、実は2007年9月の安倍総理の辞任会見だ。元々参院選の敗北で進退が注目されていたが、国会の所信表明で続投の意思を示したわずか2日後の辞任ということで、一体何なんだと、驚き、憤ったのをよく覚えている。

 そもそも記者会見というものは、それなりの立場の人が行なうわけで、それまでは、会見の内容に憤ることはあっても、訳がわからず腑に落ちない、というものはまずなかったように思う。ましてや総理大臣という国のトップが、腑に落ちない会見をするなど、想像もしなかったので、この安倍総理の会見は、本当に衝撃的だった。

 ちなみに2007年は、他にも釈然としない記者会見が色々あった。ボクシングの亀田父子の、試合中の反則行為に対する謝罪会見も、一体誰に、何に対して謝罪しているのか、そもそも本当に謝罪しているのか、と疑問だったし、船場吉兆という高級料亭の、母子の腹話術もどきの会見も(会見中言葉に詰まった息子は、隣にいる母が小声で指示した通りに発言するのだが、母の声も全てマイクで拾われ、放送されてしまったというもの)、笑わせてはもらったが、やはり訳の分からないものだった。

 というように2007年は、記者会見に変化が起きた年だったが、変わったのは記者会見だけにとどまらなかった。記者会見は世の中を映す鏡なのか、やはり世の中の雰囲気と無関係ではない。その年あたりから、世の中全体も、何か釈然としないことが増えてきた気がする。どういうことかを説明するのは、個々の事例は非常に微妙なので、難しいのだが、世の中が必ずしも悪くなったというのではなく(善悪の問題なら、昔の方が悪かった気がする)、筋の通らないことが増えてきた、という感じだ。

 今になってみれば、その頃から、利益至上主義が強まったり、何かと数字で評価される傾向が強まったりしたように思う。その結果、モノやサービスの質、あるいは自分の仕事の質を顧みなくなったり、またよい評価が出なかった時に備えて、つじつま合わせや、責任逃れの方法を考えることに腐心したりしているうちに、多くの人が、核心をついたことを言わなくなり、行わなくなり、筋の通らない、得体の知れない世の中が出来てしまったのだろうか。

 一方話は変わるが、最近よく、ある有名大学の以前の学長さんの「個人が所属する共同体の安定がなければ、個人の幸福もあり得ない」といった言葉を思い出す。この言葉は、ある公開討論会(調べてみたら、奇しくもこれも2007年のことだった)で、大学では社会や人類に貢献するために学ぶのだと言われるが、自分のことだけ考えていればいいのではないか、という過激な質問に対しての発言だったと記憶している。

 私はかれこれ10年以上、一人で自由に仕事をさせてもらっているが、共同体の安定なくして個人の幸福はないことは、理の当然だし、それは十分に分かっていたつもりだ。ただ正直、そのことを明確に意識することはほとんどなかったのだが、逆にそれは、私の所属する共同体(つまり日本)が安定していた証拠とも言えるのではないか。

 ところが2、3年前から、そのことを意識することが増えてきた。もちろん日本は、戦乱もなく平和で、共同体は安定しているではないか、と言われればその通りだし、平和な日本には大いに感謝しているが、上述の記者会見に象徴されるようなことを頻繁に目にしたり、自分の日々の生活でも、それに類する筋の通らないことに頻繁に出くわしたりすると、一人自由に英語を教えている場合なのだろうか、などと思ってしまう。

 とは言え、もはや私には英語を教えることしかできない。これまで少なくとも、英語を教えることに関しては、筋を通してきたつもりだが、これからもより一層強い意志で、筋を通していこうと思う。たとえ生徒に厳しく接しざるを得なくとも。

和訳は不要?

 昔、私が高校生だった1980年代や90年代は、学校の授業は受験には役立たないと言われていた。それが徐々に学校でも、受験を意識した授業を行なうようになってきた。学校教育的な是非はあるかもしれないが、受験生にとっては有難いことだろう。でも最近それが行き過ぎて、むしろ受験に逆効果なのではないかと思える例に出くわす。

 その端的な例は、和訳をしないことだ。現在ウチには、学校の読解の授業で、和訳をしていない(させられていない)という生徒(高1生、高2生)が複数いる。

 では読解の授業で何をしているのかと聞くと、音読や、文構造や内容的なポイントを、ごく簡単に口頭で解説するとのこと。和訳や新出単語の意味は、各授業後、場合によっては定期テストの前にまとめて、プリントとして配布されるらしい。

 さらに私としては、和訳をしないことが不思議なので、なぜ和訳をしないか、学校の先生は何か言っていたかと聞くと、分からないという生徒もいたが、早くから実戦を意識しているかららしい、という生徒もいた。入試では大量の英文を素早く読んで、主旨をつかまなければならず、じっくり和訳している時間はない。だから和訳しないでも理解できる力を早期から養う、ということのようだ。

 確かにそれはもっともな話で、私も最終的にはそうしたことを目指して、指導をしている。ただあくまでも、最終的に、そして臨機応変にということだ。もちろん受験学年の高3は、和訳なしの理解を特に重視する。が、それでも生徒の読み方が雑ならば、和訳の作業を増やして、読み方を修正したりもする。

 ましてや高1、高2では、アウトプット(既に持っている知識の運用)よりも、インプット(新しい知識の習得)の方を重視しなければならない。だからまずは本番を意識して、素早く英文を読んで主旨をつかむ練習をするにしても、その後は、きちんと和訳をさせ、知らなかった単語もリストアップして、暗記をしてもらう。

 そもそも学校の読解の教科書は、新しい課に入ると、結構な数の新出単語や、未習の文法事項を含む英文を読まなければならない。そうした英文に対して、和訳をしないで、素早く意味を取ろうとするのは非常に困難だし、勉強として効果的でない。本来そうした読み方を主目的とするなら、これまでに習った単語や文法で十分読めるはず、という教材で行なうべきだ。未知のことを多く含む英文に、さらっと読むような軽い接し方をするのでは、新しい知識も身についていかない。

 やはり、新出単語は自ら辞書などで調べ、さらには、辞書の表記通りではない、その英文に最適な訳語を、自ら頭をひねって考えたり、未習の文法事項も、参考書で調べ、自分なりの見当をつけるなどして、きちんと和訳をすべきだ。そして間違えていたところを授業で修正し、その後、せっかく身につけたことを忘れないために、そして、じっくり考えなければ分からなかったことが、今度は素早く分かるようになるために、何度も音読をするのだ。

 というように、単語調べ一つとっても、色々考えることがあり、意外と悪戦苦闘する。上述の学校の授業の例では、意味も載せた新出単語の一覧を配布してしまうとのことだが(和訳をしないことよりも、実はこのことの方が重大な問題)、これでは、貴重な悪戦苦闘の経験を奪ってしまい、苦労がない分、その後単語は記憶に残りにくくなる。そして、音読にしても、本来最も効果があるのは、自ら悪戦苦闘して意味をつかんだものを読む場合であって、しっかり解説がなされておらず、十分に理解しきれていない英文を音読しても、効果は薄いのだ。

 近年ますます、実戦で役立つ英語を身につけることが求められている。そうなると必ずやり玉にあがるのが和訳だ。実際に英語を使う場面では、素早く対処しなければならないのだから、和訳などしている暇はないとか、後からの修飾なども、前からどんどん理解できるようにならなければ、特にリスニングでついていけなくなる、などがその理由だ。

 確かにその通りだが、実戦力を目標とするにしても、そこに至る過程の勉強が、常に実戦的である必要はない。速読が求められるからと言って、常に速読にこだわった勉強だけをしていたら、読みが雑になり、対処できる英語のレベルが上がっていかない。だから、時には和訳などをしながら、じっくり読むことも必要だ。

 大体和訳というものは、訳すことだけが目的なのではない。和訳は緻密な作業だから、それを行なうことによって、今まで何となく分かっていたつもりのことも、実はよく分かっていなかったことに気づいたりする。そうした経験が、新たな学びのきっかけとなり、英語力を一歩高めていくのだ。

 もちろん、和訳しかしないとか、意味が分かった後でさえも、日本語の表現の工夫に過度にこだわる、といったことは問題だが、適切なタイミングで、適切な分量を行なえば、和訳は、実戦力をつけるための重要な作業となるだろう。

 受験においては、当然実戦力は必要だ。速読力もなければいけないし、設問の解法のコツも知っておくべきだろう。ただそれよりも前に、骨太の実力が必要だ。言いかえれば、実感として分かるという感覚、しっくりくる感覚がなければならない。そうした力を養うには、自ら単語を調べて、悪戦苦闘しながら和訳をする、という作業は非常に有益だと思う。何か英語がしっくりこないあなた、ぜひ和訳をしてみよう。

 ちなみに、昨年(2013年)の高1生から、英語という科目名が、コミュニケーション英語という名に変わった。その名の通り、コミュニケーション能力を養う(読解力だけでなく、意見を発信する力も養う)ことを目指すようだが、教科書を見る限り、読解を中心に行なうと考えてよいのだろう。

 そうした変化もあって、もしや新しい学習指導要領に、和訳はさせないように、とでも書いてあるのかと思い、確認してみると、「訳読や和文英訳、文法指導が中心とならないよう留意し」とはあったが、禁止という文言は見当たらなかった。見方を変えれば、訳読が中心でなければ、和訳をしてもよいと解釈できる。これは、遠回しな言い方でお墨付きをもらったのだと判断し、今後も私は、適切な形での和訳指導を続けたいと思う。

実用英語が身につかなかった理由は、技能の偏りだけではない

 先日、現在のセンター試験に代わる新しいテスト(平成32年度から実施)の案が示された。そして英語に関しては、聞く・話す・読む・書くの4技能を測定する、TOEFLなどの外部試験を導入するとのことだ。特に英語に関する案は、以前から注目していたが、実施時期が6年後だと明示されると、より現実感を持って受け止めるようになる。

 こうした変化は、国際化が進み、実際に役立つ英語力を身につけさせなければならない、という状況に対応したものだ。これまで大学受験では、ほとんど「読む」ことしか問うていなかったため、学生もそれに合わせて「読む」勉強しかしなかった。なので、聞く・話す・書くという他の3技能はほとんど手つかずで・・・「書く」に関しては英作文対策などで一定の勉強をする場合も多いが、入試で出題される割合は「読む」に比べて、圧倒的に少ない・・・、中学、高校と英語を勉強しても、実際の場面で使える英語は身につかなかった。

 そこで、こうした大学入試で問われる技能の偏りを改め、実際に役立つ英語力を判定しよう、ひいては学生を、実際に役立つ英語の勉強に向かわせようということだ。大学入試というものは、何だかんだと、学生の勉強の方向性を最も決定づけるものなので、その大学入試が変わる意義は非常に大きい。今回の改定案は大いに歓迎だ。

 しかし、これまで実用英語の習得を阻害してきたものは、技能の偏りだけだったのかと言うと、そうではない。実はもっと深い根本的な問題があったと、私は思っている。それは大学入試が、一般的でない例外的に難しいことを中心に問うてきた、ということだ。

 例外的に難しいことを問うとは、一般的とは言えない構造の複雑な英文の解釈を求めるとか、実際には使う頻度の低い特殊な語句の意味をストレートに問うとかだ。問うている英文そのものはごく普通でも、あるいは英文全体の主旨を問う一見良質な問題でも、設問の選択肢をあの手この手で複雑にして、結局難解にしてしまう問題も、同じ範疇と考えられる。

 時代を遡れば遡るほど、こうした問題が多く、実際私が受験生の頃(1980年代)、長文の内容は大体わかっているつもりなんだけど、設問のところに限ってわからないなあ、という思いをよく持った。もちろんそれは、重要事項を忘れていた自らの失態のせいもあったが、今になってみれば、上述のような問題の性質によるものも多分にあったと思う。

 もちろん、全ての大学の全ての問題が、そうした例外的に難しいことばかりを問うているわけではないが、少なくとも私立大の大半の入試問題は、このような類のものだったと言える(国立大も問題点がないわけではないが、比較的良質)。そうした問題が一部ならよいのだが、大半がそうだとなると、実用英語の習得を阻害する。

 本来長文問題は、全体の主旨がわかる、あるいは段落毎の主旨がわかることを判定する問題が主となるべきだが・・・それが長文における実用的な力を測ることになるはず・・・、そうしたことがわかっても、結局は、例外的に難しい部分の解釈が出来たり、使う頻度の低い難解な語句を覚えたり、不必要に複雑に仕立て上げた設問に対処する技を身につけたりしなければ、得点に結びつかないというなら、勉強の主眼は、文章の主旨をつかむことよりも、そうした些末なことの対策の方に置かれてしまう。

 そして実用という観点でさらに考えてみると、日常や仕事で英語を使う場合に必要とされるのは、例外的に難しい知識を知っていることではない。そうしたことを知ったとて、実際に使うことは稀だし、そうした知識は得てして、テストという特定の場面で、頭から必死で絞り出そうとすればようやく出てくるのが関の山で、実際に必要な時に、頭からさっと出てくるわけではない。むしろ必要なのは、普通のレベルのことが、安定的、継続的に使えるようになっていることだ。普通のレベルと言っても、単に知識として知っていればよいなら簡単かもしれないが、いつでも自在に使いこなせる状態になるには、それなりの訓練が要る。でも入試は、そういうことを問わないから、学生は勉強の多くの時間を、例外的に難しい知識の習得に費やすことになる。こうして実用英語の習得が阻害される。

 このように、入試が例外的に難しいことを問う背景には、英語という教科の位置づけが関係していたと思う。私が学生だった1980年代、そして90年代の大部分は、英語という教科の位置づけは、あくまでも知的訓練の題材で、実用面はほとんど問題にされなかった。英語力そのものを高めるというよりも、英語を利用して知性を鍛える、ということだった。識者の方たちも、実用英語など、必要な時に本気になって練習すれば簡単に身につくので、学校で行なう英語は知的訓練でよい、と言っていた。根本的にこんな考えだったので、入試が実用面などは考えず、難しいことばかりを問うのも、無理からぬことだった。

 そうした思想は、強弱の差はあれど、2000年頃までは続き、そして過渡期を経て、2007年頃に変化の兆しが表れ、徐々に、文章の大事な点が読み取れれば、かなりの得点ができる、従来とは違うタイプの入試が増えてきて、今に至っていると思う。

 ちなみにこうした変化をはっきり意識したのは、最近のセンター試験の変化がきっかけだった。センター試験は、2003年に急に易しくなり、その後も年を追う毎に徐々に易しくなっていると思う(逆に分量は増えているが)。当初は、レベルと分量の変化だけを意識していたのだが、その後それだけではない何かが変わっていくのを感じた(初めは、上手く言葉にできなかったが)。それが上で述べた、例外的に難しいことを問うことがなくなった、ということだ。

 センター試験でも、やはり長文の中に、一部特に解釈の難しい箇所があって、全体の主旨がわかっていても、その箇所が正確にわからなければ解けない問題があった(他の入試に比べて、圧倒的にその割合は少なかったが)。でも2007年頃から、そうした問題は徐々に減り、2012年にはついにそうした問題は姿を消し、ほぼ全てが、文章全体の主旨や段落の主旨がわかれば解ける問題となったのだ(当時のブログにも書いている)。

 最近TOEFLの問題を見たことも、そうしたテストの質の違いを意識するきっかけとなった(実際に受験したわけではないが)。TOEFLの問題(ここで話題にするのはReadingのみ)は、噂通り難しかった。では何が難しいのかと問われると、これがなかなか言いづらい。語彙レベルは高いが、極端に難しいものがゴロゴロ出ているわけではないし、文法的に難しい箇所は皆無と言ってよく、ごく普通の分詞構文や関係詞が使われているくらいだ。そして一番気になったのが、上で述べてきたような、特にここが難しいという特定の箇所がなく、全体的に難しいということだ。

 では改めて何が難しいのかと言うと、英文の内容が高度で、情報量も多いので、とにかく実力がないと、頭の回転が追いつかず、時間内に情報処理がしきれない、ということだろうか。このように、特に難しい箇所がなく、全体的に難しいというのは、新鮮な感覚だったが、問題としては高度でも、特に例外的に難しいことを問うわけではなく、全体的に英文の意味をきちんと理解できさえすれば、つまり実力さえあれば得点できるという、こうしたテストを、日本の入試もまねるべきではないかと思った。

 上述のように数年前から、そうした入試が増えてきている。でも、まだ十分な変化が起こったとは言えないし、相変わらず旧態依然の出題をしている大学も少なくない。 6年後には、「読む」だけではなく4技能を全て測定するという、大きな変化が起きるようだが、その前の、入試が「読む」ことしか問わない段階であっても、王道を行く勉強をしていればきちんと報われるような入試が、もっともっと増えてほしいものだ。

情報過多の時代における家庭教師の役割

 英語を教えている私も、もちろん英語の疑問点を調べることがある。最近は専らネットで調べることが多いが、本当に情報が豊富で、ほぼ全ての疑問が、ネットで片付いてしまうと言ってもいい。

 文法の解説など、英語そのものについての情報はもちろん、お薦めの教材、お薦めの勉強法、自らの体験記など、ありとあらゆる情報があふれている。ネットだけでもこれだけの情報が揃えば、あえて誰かに英語を習う必要はなくなってくるのではないか、ましてや、費用のかかる家庭教師に習う必要はなくなってくるのではないか、などと私の立場では不安を感じたりする。

 では、家庭教師は不要になるかと言うと、需要は減るかもしれないが、なくなることはないだろう。情報が豊富にあると言っても、それを生かして自ら勉強ができるためには、それなりの世界観が確立していなければならず、それを確立するには、やはり人による対面指導が必要だと思うからだ。

 ここで言う世界観を明確に言葉で説明するのは難しいのだが、・・・だからこそ人による対面指導が必要なのだ・・・一言で言えば、おぼろげながらでも全体像がつかめているという感覚、もう少し言えば、これから未知のことを勉強していくにしても、やるべき事の見当がつく、進むべき方向はこちらだと感じられる感覚、といったことになるだろうか。

 ちなみにこうした感覚は、一定量の知識が、体系的、有機的に結びついて起こる、脳内変化によるものと言える。なので何を勉強するかといった、勉強の内容・題材というよりも、とにかく脳内変化が起こるまで、継続的に脳に適度な負荷をかけ続ける、といったことが重要だ。そしてこうした指導は、ここを読んでおいてね、というような指示で済ますことはできない。つまり、情報として伝えられる類のものではなく、まさに、対面指導の出番なのだ。

 では、その必要な世界観が確立していれば、対面の指導は不要かと言えば、まあ不要と言っていいかもしれない。ただそれでも、情報の選択係など、家庭教師の役割はある。現在はとにかく情報過多の時代なので、多くの情報に接することはできても、今の自分にとって最適な情報はどれなのか、という判断は意外と難しい。あるいは判断ができても、時間がかかって非効率ということもある。問題集選び一つとっても、今はものすごい数があるので、途方に暮れたりする(と、以前社会人の生徒が言っていた)。こうしたことも含め、生徒の状況を的確に判断した上で、最適な情報が提示されれば、勉強の効率アップにつながる。

 ペースメーカーとしての役割もありそうだ。定期的に授業を行なうことで、必然的に勉強に向かうようになるといった効果はもちろん、そのくらい定着したのなら先に進むべき、その程度の理解なら立ち止まってもっと復習すべき、などの指摘もできる。

 やる気を出させること、モチベーションの維持も、もちろん重要な仕事で(一番重要と言っていい)、これこそ、ここを読んでおいてね、といった指導では不可能なことだ。

 と、このように、情報過多の時代においても、どうやら対面指導の家庭教師の出番はありそうだ。そう言えば、以前ある知識人が、「教育とは情報として伝えられないことをつかませることだ」と言っていた(と記憶している)。実に名言で、これをすることこそ、教師の存在意義だと思っている。そして、英語110番を開設してからは、そのことを肝に銘じて授業を行なってきたつもりだ。情報があふれる時代になっても、いやむしろ、そういう時代だからこそ、そのことの重要性は高まっている。今後もその名言を胸に、授業を行なっていきたい・・・と宣言して、満4年目のブログ記事を締めくくろう。

求めないものは手に入らない

 受験の天王山と言われる夏休みも終わりを迎えるが、受験生の皆さんは、うまく勉強を進められただろうか。その夏休みは、実戦的な勉強も意識すべき時だが、英語の受験勉強において、多くの受験生にとって、最後にして最大の山場となるのが、「速読力」の養成ではないだろうか。

 こつこつ勉強を続けて、必要な単語や熟語、文法を覚え、文脈の追い方などの読解法を習得すると、長文は読めるようになるが、さしあたりは、ゆっくりなら読めるが、という条件がつくことがほとんどだ。それでも結構な偉業達成なのだが、入試を突破するためには、長文を「速く」読めるようになる、という仕事が待っている。

 得てして低学年のうちは、リーディングの教科書を、辞書などで調べながらきちんと訳すというように、時間はあまり気にせず、とにかく精度を高める、という勉強が重視されがちだ。もちろんこうした作業を通して、まずは英語の実力の下地ができるので、これはこれで重要だ。でも如何せん、入試は解く時間が限られている。当然「速く」問題がこなせなければならない。なので「速さ」に主眼を置いた勉強も必要になる・・・精度を犠牲にしてさえも。

 ウチの授業でも、遅くとも高3の夏には、こうした「速さ」を意識した勉強を行なってもらうが、今年はなぜか、これに抵抗感を示す生徒が多い。

 「速く」読むには、細かい箇所にはこだわらずに、大体の主旨をつかみながら読み進めたり、わからない箇所は推測をしたり、とりあえず飛ばして読んでみたりといった、読解の精度を下げざるを得ない作業も必要になる。こうした作業が、それまでに行なってきたリーディングの勉強法・・・どの文もきちんと訳す、そしてきちんと訳してから次の文に進むといった勉強・・・に反するため、何か気持ちが悪くて抵抗感があったり、そんないい加減なことをしてよいのかと、罪悪感さえ持ったりするらしいのだ。

 こうした感覚は自然なものだが、最近は実は真面目な生徒が増えているので、より抵抗感が強まっているのかもしれない。その真面目さゆえか、これまでのじっくり型の勉強で何とかならないかと、食い下がる生徒もいたりする。もちろんそうした勉強は必要だ。それは受験が近づいても変わらない。でも、ゆっくりの勉強だけでは、どんなに磨きをかけても、ゆっくりからは脱せられない。少しは速くなるかもしれないが、画期的な変化はない。やはり、根本的に主眼を置くところを変えることが必要だ。「速く」を意識しないのに、自然に「速く」読めるようにはならない。求めないものは手に入らないのだ。

 当然のことだが、通常大学入試で全てがわかるということはない。どんなに勉強をしても、わからない単語には出くわすし、どこかしら内容がつかめない箇所にも出くわすものだ。ましてや第一志望の入試は、余裕を持って解けるなどということはないはずで、あれこれ手を尽くしてギリギリ合格点に達する、という感じではないだろうか。だから、知識を身につけたことで満足してしまっては、勉強としては不十分で、持っている知識を最大限に生かして、しかも限られた時間で最高のパフォーマンスを発揮できるようにするという、知識の習得とは次元の違う勉強も必要だ。

 真面目に勉強するのは、全くもってよいことだが、その真面目さが徒とならないよう、必要ないい加減さも、真面目に取り入れよう。